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57 白黒、赤黒


 一歩。

 熾祈がその右足を踏み込んだ瞬間、モノクロームの玉座の間は、もはや既存の物理法則が通用しない加速の世界へと変貌した。

 彼の踏み込みに呼応して背後の空気が爆ぜ、その余波だけで床のタイルが数メートルにわたって粉砕される。


「ハァッ!!」


 熾祈の放つ『紅蓮の剣』が、大気を焼き切りながらノワールの首筋へと殺到する。対するノワールは、漆黒の細剣レイピアを予備動作さえ見せず、最短距離でその一撃を迎え撃った。

 響いたのは、金属同士が噛み合う高い音ではない。次元と次元が激しく削り合う、神経を逆撫でするような軋みが空間を震わせる。


 熾祈はそのまま流れるような体術で身体を翻すと、左手の銀色の銃をノワールの眉間へと突きつけ、ゼロ距離で引き金を引いた。


 ――カァン!


 放たれた魔弾を、ノワールは細剣の腹で事も無げに弾き飛ばす。跳弾が玉座の一部を粉々に砕き、無彩色の部屋に一瞬だけ強烈な火花が散った。その閃光をバックに、二人の影が目まぐるしく交差する。

 熾祈の剣筋は、死神の鎌の如く重く、鋭い。

 ノワールの剣筋は、数学の証明の如く冷たく、一点の無駄もない。


「無駄だよ、熾祈。君の筋肉の収縮、網膜の動き、魔力の指向性――その全ては、僕の演算上で既に確定した『数字』として処理されている」


 ノワールの冷徹な一突きが、熾祈の黒い外套を紙のように容易く切り裂く。だが、熾祈は顔色一つ変えなかった。斬られた瞬間に身体を捻り、逆立ちの体勢からノワールの顎を狙って、全魔力を込めた蹴りを叩き込んだ。


 常人なら視認することすら不可能な超高速域で、数百の攻防が繰り広げられる。

 熾祈は縦横無尽に空間を支配する。壁を蹴り、天井を走り、重力をあざ笑うような三次元的な機動でノワールの死角を突き続ける。銀の銃から放たれる銃弾がノワールの退路を精密に断ち、紅蓮の刃がその喉元を幾度となく狙い定める。


「チッ……!」


 ノワールの絶対的な計算に、僅かなノイズが混じり始めた。

 熾祈の動きが、秒単位でさらなる加速を見せているのだ。玲奈という救うべき色彩だけを見る死神の剣は、もはや単なる破壊の道具ではない。それは、絶望の果てに掴み取ろうとする剥き出しの生存意志そのものだった。


 熾祈は空中で銃を放り投げると、両手で紅蓮の剣を握り直し、渾身の大上段から剣を振り下ろした。

 ノワールが細剣で受け止めるが、その圧倒的な圧力に、黒と白の幾何学模様が刻まれた床が蜘蛛の巣状に爆ぜ、地鳴りを立てる。


「計算だの数字だの、さっきからうるさい奴だ。俺の命は、貴様のちっぽけな数式に収まるほど、安くはない!」


 熾祈の瞳が、血を流したような深い紅に輝きを増す。

 彼が力を使う度に命が削れる……それを思い出した玲奈は悲痛な叫びをあげる。


「駄目です熾祈さん!あなたが消えてしまうくらいなら、私を放って逃げてください!」


 玲奈の言葉など気にも留めない。弾き飛ばされた銀の銃が空中で一回転し、磁石に吸い寄せられるように再び熾祈の手に収まる。着地と同時に放たれた、剣と銃の同時連撃。命を賭して与えるその衝撃が、ついにノワールの漆黒の細剣に、初めて目に見える傷を刻み込んだ。


 ノワールが、初めてその一歩を大きく後退させた。

 仮面の奥の瞳に、計算外の事象――自分を上回る熱量を目の当たりにした際の、暗い焦燥が走る。


「認めよう、死神。個としての出力において、君は僕の予測した限界値を超えた」


 ノワールは玉座へと飛び退き、玲奈を繋ぎ止めている白黒光の鎖へと左手を伸ばした。

 その瞬間、玲奈の細い身体が激しく震え、彼女の透き通るような肌から不気味な光の粒子が溢れ出した。


「熾祈……さん……ッ! あ、あああああッ!!」


 苦悶に顔を歪める玲奈。彼女の中に眠る特異点をも混乱させる程の莫大な魔力が、鎖を通じて強制的にノワールへと吸い上げられていく。

 ノワールの折れかけていた細剣が、玲奈の命の灯火を取り込むことで脈動を始め、より深く、より禍々しい光を纏い始めた。


「勝利のための変数を、ここで固定させてもらうよ。さあ、ここからが本当の『演算』の始まりだ」


「――貴様ッ!!」


 ただの電池スペアとして玲奈を蹂躙し力を得るノワールの卑劣。

 熾祈の魂の底から絞り出された咆哮が、玉座の間を激しく震わせた。紅蓮の炎は怒りによってどす黒く変色し、死神は真の修羅へと姿を変えようとしていた。



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