59 ありきたりな言葉ですけど、愛しています
それは、生命が到達してはならない領域への侵犯だった。
ノワールの漆黒の細剣が、熾祈の心臓を万回の死という重畳された因果で貫こうとした、まさにその刹那。
玉座の間を支配していた冷え切った無の理を、強引に引き裂く音が響いた。それは玲奈の、魂を削り出すような慟哭だった。
「嫌……。熾祈さんが壊れるところなんて、もう見たくないッ!!」
玲奈が白黒に発光している鎖を握り潰すように掴むと、世界が歪む。
視界が強烈な極彩色に爆ぜ、物理法則が悲鳴を上げて書き換えられていく。
次に熾祈が目を開けた時、そこは血生臭い戦場でも、冷徹なモノクロームの塔でもなかった。
琥珀色のランプが温かく灯る、見慣れたバー『サイドテイル』のカウンター。
外では穏やかな雨が降り、店内にはどこか懐かしいジャズが流れている。戦場での激痛は嘘のように消え、そこにはただ、静止した救いがあった。
熾祈が異変に気づき、立ち上がろうとしたその時。玲奈が彼の腕に、指の先が白くなるほど強くすがりついた。その細い肩は、小刻みに震えている。
「離せ、玲奈。あいつを……ノワールを倒さなきゃ、いつかここも、お前の未来も消される」
「行かせません! 外の世界なんて、MCAなんて、この次元がどうなったっていい! 熾祈さんが目の前で万回も、十万回も斬られるのをただ見ているくらいなら……わたくし、ここで貴方と二人きりで、一生を閉じ込めたって構いません!」
玲奈の瞳には、かつてないほどの激しい拒絶と、狂おしいほどの執着が宿っていた。
特異点としての力が、彼女の願いを現実に変えていた。ここは彼女が望んだ、永遠に続く停滞の聖域。外側の時間がどれほど経とうと、この琥珀色の空間だけは、熾祈を傷つけるあらゆる因果から隔絶されている。
「どうしてだ。俺みたいな、過去に囚われて、ただ死に場所を探しているような男のために」
熾祈の自嘲気味な問いに、玲奈は溢れ出した涙を拭おうともせず、彼を正面から、逃げ場を塞ぐように見据えた。
「ええ、そうですわ。貴方は不愛想で、わたくしのことなんて全然女の子として見てくれなくて。昔の恋人に囚われて、ずっとウジウジして……。あんなにかっこいいくせに、どうしようもなく情けないところばかり!」
飾りのない言葉が、熾祈の胸に深く刺さる。玲奈はさらに一歩、その懐に踏み込んだ。
「でも、その目の奥にある『誰かを守りたい』っていう、不器用で強すぎる意志が……ただの『商品』として扱われていたわたくしを、自由にしてくれる最初の一歩になったんです。命を懸けて戦ってくれる貴方に、わたくしが救われないはずがありませんもの」
玲奈は熾祈の頬にそっと手を添え、震える声で続けた。
「貴方のその強い意志も、捨てられない過去の傷跡も、全部わたくしにください。……熾祈さんの絶望ごと、愛したいんです。だから、お願い……自分を、そんなに粗末にしないで」
熾祈は、自分を愛という名の檻に閉じ込めようとする玲奈の肩を、静かに、だが力強く抱き寄せた。
「ここから逃げた先にある平穏を、俺は『未来』とは呼べない。お前が心から笑える世界でなきゃ、俺は自分を許せないんだ」
熾祈の真っ直ぐな、そして穏やかな視線に、玲奈の張り詰めていたわがままが静かに崩壊していく。彼女は涙を流しながらも、覚悟を決めたように小さく頷いた。
「勝ってきてください。わたくしの、唯一の騎士様」
玲奈はつま先立ちになり、呆然とする熾祈の唇を、その柔らかな唇で塞いだ。
それは契約であり、祈り。
彼女が無理やり固定していた静止した日常がガラス細工のように砕け散り、特異点の全エネルギーが、極彩色の奔流となって熾祈の魂へと雪崩れ込んでいく。
意識が再び、あの殺伐とした玉座の間へと引き戻される。
ノワールの漆黒の細剣が、熾祈の胸板に触れたその瞬間――。
パリン!
大気を震わせる硬質な音が響いた。
ノワールが確定させたはずの死が、熾祈の肌に刻まれた、まばゆい極彩色の膜に完全に弾き返されたのだ。逆にノワールの腕には、因果の反動による凄まじい衝撃が走り、その漆黒の剣身を激しく震わせる。
「な……っ!? 僕が確定した『死』を、力技で弾き返しただと!? 演算不可能な高エネルギー……まさか、特異点と完全に同調したというのか!」
驚愕に叫ぶノワールの前で、熾祈の身体からは、七色の輝きを放つ魔力がオーラとなって立ち昇る。
これまでのような冷徹で虚無的な死神の姿ではない。玲奈の愛と、執着と、未来への願いをその背に背負った、全てを焼き尽くす情熱の化身。
熾祈は折れかけていた膝を、力強く踏みしめた。その瞳には、かつての絶望の陰りは微塵もない。
「ここからは、俺が楽しませてもらう」




