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45 金曜日はバーに来たい


 あれから数日が過ぎた。

 MCA本部での、事実上の軟禁状態に近い生活。玲奈の忍耐という名のダムは、今まさに決壊の時を迎えようとしていた。


「熾祈さん……わたくし、もう限界ですわ。このままでは火花ではなく、ストレスで本物の火を噴いて、この部屋を消し炭にしてしまいます」


 頬をリスのように膨らませ、ベッドの上で抗議の声を上げる特異点の少女。その姿は、世界を揺るがす力を持つ者とは思えないほど、年相応で愛らしい。

 熾祈は壁に背を預けたまま、無造作に端末をポケットに放り込んだ。裏では既に、鏡香へ外出の許可とバックアップの要請――という名の丸投げを済ませている。


(鏡香なら、俺がどこで何をしていようと、寸分の狂いもなく状況をコントロールするだろう)


 ある種の投げやりな、しかし絶対的な信頼。熾祈は小さく溜息を吐き、玲奈へと視線を向けた。


「玲奈。少し、外の空気を吸いに行くか」


「えっ? い、今、なんと仰いましたの!?」


「二度言わせるな。準備しろ」


 玲奈の瞳が、夜空に瞬く星よりも眩しく輝いたのは言うまでもない。




 夜の帳が下りた街角。喧騒から一歩踏み外した地下へと続く階段の先に、バー『サイドテイル』はある。

 カウベルの乾いた音が響き、琥珀色のライトが二人を優しく迎え入れた。


「いらっしゃいませ、熾祈様。おや、先週に引き続き、本日も可愛らしいお連れ様とご一緒ですね」


 カウンターの奥で、細い目をさらに優しく細めて微笑むのは、物腰柔らかな紳士。若々しい外見に似合わず、底知れない老練な雰囲気を纏ったマスターだ。

 玲奈は期待に胸を膨らませて周囲を見渡したが、すぐにジト目になって熾祈を振り返った。


「熾祈さん。ここ、やっぱりいつものバーではありませんか」


「ああ。利害の一致だ。お前は気分転換ができる。俺は金曜のルーティンを崩さずに済む。文句があるか?」


「もう! 相変わらずデリカシーというものが欠如していますわ! せっかく二人きりのデートだと思ったのに、貴方の生活リズムに組み込まれただけなんて!」


 ぶつぶつと不満を零しながらも、玲奈は熾祈の隣の席を死守し、運ばれてきたノンアルコールのカクテルを嬉しそうに口に含んだ。


 会話が途切れた隙間を、氷がグラスに当たるカランという澄んだ音が埋める。

 熾祈はグラスの中の琥珀色の液体を凝視しながら、重い口を開いた。


「マスター。あんたに、聞きたいことがある」


 マスターの手が止まる。熾祈の声音に含まれた、消しきれない湿り気を、彼は瞬時に察した。


「左様でございますか。私に答えられることであれば、何なりと」


「冥を、殺さずに止める方法はないものか」


 玲奈のグラスを持つ手が、ピクリと止まる。

 マスターはゆっくりと布巾を置き、遠い目をした。彼は、熾祈がかつて冥とこの店を訪れていた日々を知る、数少ない証人の一人だ。


「私の個人的な見解ですが、彼女は、ただ心が堕ちただけではない気がいたします。あのお嬢さんの根底にあったのは、深い慈愛でした。それがこれほど短期間で、破壊の化身に変貌するもの。あまりに不自然でございます」


「何かに、操られていると?」


「あくまで可能性の話でございますよ。ですが熾祈さん、堕ちることは容易くても、堕ち続けるには膨大な”力”を要します。彼女の背後で、その糸を引く何かが、彼女の絶望を燃料に変えているのかもしれない。……そんな気がしてならないのです」


 玲奈は、胸の奥をチリチリと焼くような嫉妬を感じていた。

 けれど、それ以上に熾祈の中の冥を知りたいという、抗いがたい欲求に突き動かされた。


「マスター。冥という方は、一体どのような方でしたの?」


 敢えて、最大最強のライバルの名を口にする。マスターは玲奈の勇気を称えるように、穏やかに答えた。


「優しくて、いつも熾祈さんの身のことばかりを案じておられる心強い女性でしたよ。彼が血に汚れて帰ってきても、彼女だけは変わらずにここで笑って、彼を待っておられました」


 その言葉を聞いた瞬間、熾祈は視線を伏せ、膝の上の拳を白くなるほど強く握りしめた。

 奥歯を噛み締めるギチりとした音が、玲奈の耳にも届く。


「……そうだ。あんなに優しい女を……あんなに普通に笑っていた女を、暗い地獄に引きずり落としたのは……。他でもない、この俺なんだ」


 絞り出すような、熾祈の自責の念。

 その横顔には、どんな強敵を前にしても見せることのない、剥き出しの絶望が張り付いていた。


 玲奈は、かけるべき言葉を見失った。熾祈の心の中に深く根を張る冥という名の闇。それは、今の彼女が放つ金銀色の火花でも、まだ照らしきれないほど深く、そして救いようがなく重いものだった。



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