39 あの頃の幸せな一節
廃墟の静寂を、立ち昇る紫煙の刃と銀色の弾丸が激しくぶつかり合う。
熾祈と冥の衝突は、もはや技術や魔力の応酬という次元を超え、互いの魂を削り合う残酷なまでの儀式へと変貌していた。
冥の攻撃は苛烈を極めていた。
かつての恋人の心臓を、一ミリの躊躇もなく貫こうとする純粋な殺意。だが、その瞳の奥には、熾祈にしか読み取ることのできない、凍てつくような孤独がひび割れた鏡のように揺らめいている。
「どうしたの、熾祈? 昔のあなたなら、今の一撃で私の首を落としていたはずよ。その程度まで鈍ったの? その腕も、心も」
冥が軽やかに地を蹴り、熾祈の懐に潜り込む。黒いドレスが夜の闇に溶け、彼女の身体から溢れ出す不気味な紫煙が、熾祈の視界を、そして精神の境界線をじりじりと侵食していった。
鍔迫り合いの距離。互いの吐息が届くほどの間近で、冥はふっと力を抜いた。
それは凄惨な戦いの中に生じた、あまりに残酷で甘美な空白。
「ねぇ、熾祈……教えて?」
彼女は、血に濡れた指先で熾祈の頬をなぞるように滑らせた。その声は、毒を孕んだ蜜のように妖艶に響く。
「今の女、そんなにいいの? 私の代わりにしては、少しばかり光が強すぎるんじゃないかしら」
その瞬間、熾祈の脳裏に、封印していたはずの記憶がフラッシュバックする。
――任務の合間、安っぽいベンチで分かち合った温い缶コーヒー。
――「いつかエージェントを辞めたら、海辺の街に住みましょう」と、はにかんで笑った冥の、柔らかい指の感触。
マルチバースで観測した「自分がいなくても幸せな彼女」ではなく、確かにこの世界で自分を愛してくれていた、陽だまりのような冥の笑顔。
熾祈の胸を、烈火のような焦燥と、断ち切りがたい未練が焼く。
しかし、その幸せな過去を突きつけられたからこそ、今の彼女が纏う冷たい紫煙が、熾祈には悲しくてならなかった。
「あいつは、お前の代わりじゃない。そして、俺はもう、過去を抱いて心中するつもりもない」
熾祈が強引に銃身で冥を突き放し、至近距離からトリガーを引く。
冥はそれを、まるでワルツを踊るような優雅さで回避した。
彼女の真の目的は、熾祈を殺すことではない。
彼を絶望の淵まで叩き落とし、すべてを奪い、自分と同じ亡霊の側へと引きずり戻すこと。
だが、今の熾祈の瞳には、かつての濁った虚無はなかった。
サイドテイルのカウンターで誰かのためにカクテルを飲み、誰かのために帰ろうとする一人の人間としての、泥臭いまでの光が灯っていた。
「ふふ、本当に。忌々しいほどに良い目になったわね、熾祈。その光を、今すぐ塗り潰してあげたくなってしまうわ」
均衡は崩れない。互いに致命傷を避けながらも、確実に相手の肉体を削り合う攻防。
やがて、夜明け前の冷たい風が廃墟を吹き抜けた時、冥は吸い込まれるように夜の影の中へと沈んでいった。
「今日のところは、このくらいにしてあげる。でも、安心して?」
冥の姿が霧のように薄れ、去り際に残した言葉が、呪いとなって熾祈の鼓膜に刻まれた。
「あなたの新しい『希望の光』は、私たちが上手いこと活用させてもらうから。あの子が本当の絶望に染まる時、あなたはまた、這いつくばって私の元へ帰ってくることになるわよ」
冥の気配が完全に消滅し、熾祈はその場に崩れるように膝をついた。
肩からは鮮血が流れ、精神は極限まで摩耗しきっている。しかし、その手はしっかりと、玲奈という未来を守るための銃を握りしめたままだった。
「誰が、帰るかよ。地獄に落ちるなら、俺一人で十分だ」




