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38 しがないただの店主ですよ


 バー『サイドテイル』の静寂を切り裂く、乾いた銃声。しかし、放たれた弾丸が標的である玲奈に届くことはなかった。

 カラン、と氷が溶けてグラスに当たる音。それは、この場に似つかわしくないほど涼やかな響きだった。


 ネクタイを外したマスターが、音もなく一歩、踏み出す。

 アイロンの効いた白いシャツに、汚れ一つない黒いエプロン。整えられた髪に、柔和でどこか儚げですらある青年の面差し。一見すれば、街のカフェにいる優しそうなお兄さんにしか見えない彼が動いた瞬間、店内の空気が物理的な質量を帯びて圧縮された。


「私のテリトリーでは、騒音は禁じております。カクテルの味が、濁ってしまいますから」


 その声はどこまでも優しく、清涼だ。

 だが、マスターの動きは、もはや速いという言葉を置き去りにしていた。

 漆黒の戦闘服に身を包んだ『ヴァニシングオーダー』の精鋭部隊。彼らが引き金を引くよりも、マスターはその清楚な微笑みを崩さぬまま、彼らの懐へと滑り込んでいた。


 拳を振るうことすらない。ただ指先で空気を弾き、歩法の余波で生じた衝撃波を点で当てる。

 一人は天井へ。一人は壁へ。何が起きたのか理解する暇もなく、熟練のエージェントたちが紙屑のように宙を舞い、意識を刈り取られていく。


 玲奈が目を見開く中、カウンターに並んだ高価なボトル一本、繊細なクリスタルグラス一個すら揺れることはない。破壊の余波すら完全に支配する、あまりに美しすぎる暴力。それは暴力というより、ジャズピアノの調律のようだった。


 壊滅した部隊の背後から、一際不吉で、刺すような圧力が流れ込む。

 現れたのは、ヴァニシングオーダーの中でも特殊な権限を持つ処刑官エクスキューショナークラスの男だった。


「なるほど、噂の『引退した怪物』か。だが、そんな若造が……! 私の消滅回路イレース・サーキットは、概念ごと存在を削り取る死の宣告だ。消えろ!」


 男が構えた大型の魔導兵器から、空間そのものを腐食させるような黒い奔流が解き放たれる。壁が、床が、触れたそばから粒子となって崩壊し、虚無へと消えていく。


 玲奈は恐怖に息を呑み、その異質な景色に足が竦む。だが、マスターは眉一つ動かさず、ただ静かに、死の嵐の中へと歩みを進めた。その姿は、春の庭園を散策する青年のような、危ういほどの気品に満ちていた。


「概念を削る? 面白い冗談だ。私にとって、それは少々質の悪い煙草の煙と大差ありませんよ」


 マスターは、向かってくる黒い奔流を避けるどころか、あえてその中心に――白く、細い指先を差し入れた。

 本来なら触れた瞬間に腕ごと消滅し、存在の記録すら抹消されるはずの死の領域。しかし、マスターの指先が触れた瞬間、黒い霧は主に従う獣のように、その場に釘付けとなった。


「本当の『力』の使い方を、教えてあげましょう。物は、こうやって『掴む』ものです」


 マスターが軽く拳を握る。

 ただそれだけの動作で、空間を蝕んでいた黒い霧が凄まじい勢いで逆流し、圧縮され、マスターの掌の中の一点に――まるで小さな、漆黒の真珠のように収束した。


「なっ……あり得ない! 消滅現象を物理的に『掴み』、あろうことか圧縮しただと……!?」

「あなたの技は、グラスを磨く私の手の動きよりも、はるかに単調で退屈です」


 絶望に染まる処刑官の視界から、清楚な青年の姿が消えた。

 一閃。

 男は何が起きたのかすら分からず、ただ自分の胸元にあったはずの消滅回路が、最初から存在しなかったかのように消失していることに気づく。

 そして、マスターの軽い掌打が胸に触れた瞬間、男の意識は永遠に等しい暗転の中へと叩き落とされた。


 敵の完全な沈黙を確認すると、マスターは何事もなかったかのようにネクタイを結び直した。

 床に転がる無惨な残骸を、一瞥することすらない。彼は優雅な所作でカウンターの内側に戻ると、怯える玲奈にいつもの柔和な微笑を向けた。


「少し、賑やかすぎましたね。これではお話もままならない。玲奈さん、もう大丈夫ですよ」


 マスターは手際よく、今度はより香りの強いアッサムの茶葉をポットに入れる。その指先は、先ほど概念を握り潰したとは思えないほど、繊細で美しい。


「落ち着くことが肝要ですよ、玲奈さん。熾祈さんが戦っているのは、外の敵ではありません。彼自身の『心』という、最も厄介な戦場です」


 その泰然自若とした姿に、玲奈は戦慄と共に確信する。

 この男は、単なるバーのマスターではない。熾祈という怪物を、怪物として完成させた――歳月という概念すら置き去りにした、この世界の理の外に座す超越者なのだと。



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