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37 多次元の運命


 バー『サイドテイル』。カウンターで淹れられたアールグレイの香りが、玲奈の冷え切った心を微かに解かしていく。

 マスターは、グラスを拭く手を止めた。眼鏡の奥の細い瞳に、残酷な記憶の断片を宿らせ、物語を語り始める。


「熾祈さんと冥さんは、かつて誰もが認める恋人同士でした。ですが、ある任務で、踏み込んではならない『禁忌』に触れてしまったのです」


 MCAのエージェントにとって、マルチバースを覗き見ることは日常の一部。しかし、組織には鉄の規律が存在した。


『自分たちの異なる運命を観測してはならない』


自我の崩壊を防ぐための、絶対的な禁忌。


「ですが、その時の任務はあまりに特殊でした。特異点の追跡過程で、彼らはどうしても自らの分岐点を直視せざるを得なかった。……そして見てしまったのです。銃を手に血を流す自分たちではなく、一人の女性として、熾祈さんではない別の男性と手を取り合い、穏やかな幸福に包まれて微笑む冥さんの姿を」


「それを、二人は職務として、克明に観測してしまった。それが、すべての歯車を狂わせました」


 マスターの淡々とした言葉が、玲奈の胸を鋭いナイフのように抉る。


「ですが、悲劇はそこでは終わりませんでした。彼らがこのノーウェアに戻ってきた後、熾祈さんは“結果的に”、彼女の幸福を象徴していたはずのその男性を、自らの手で殺めることになってしまった」


 愛する人の“自分がいなくても得られたはずの最高の幸福”を、自らの手で破壊してしまった。禁忌を犯し、幸せを奪った。その日から、熾祈にとっての愛は、消えない重罪と同義になったのだ。


「『あなたと付き合わなければよかった』。……彼女が最期に遺したその言葉は、彼にとっての謝罪でも拒絶でもなく、動かしようのない『事実』として突き刺さった。彼は、自分が傍にいること自体が、愛する者を不幸にする病なのだと……今も、心の底から信じ込んでいるのですよ」




 一方、熾祈はMCAの封鎖区画、厚い塵の積もった旧アジトの廃墟に辿り着いていた。

 端末が指し示す微弱な信号の源。そこには、数年前に自分が確実に葬ったはずの、冥の私物がかつてのまま整然と並べられていた。


「何の真似だ。冥は死んだ。この手で、確かに心臓を撃ち抜いたはずだ」

「ええ、あの日、あなたの『正義』が、私の未来も、あの人の命も、すべてを奪い去った瞬間にね」


 影の中から姿を現したのは、黒いドレスを纏い、全身から不気味な紫煙を立ち昇らせた、綾辻あやつじ めいその人だった。




 同時刻。サイドテイルの重厚なドアが、衝撃波と共に荒々しく蹴り破られた。

 流れ込んできたのは、『ヴァニシングオーダー』の実行部隊。玲奈を捕獲し、その存在確率をゼロにするための消滅回路を構えている。


「発見した。目標――特異点、九条玲奈。……これより、強制回収を開始する」


 玲奈は、身を挺するように前に出た。熾祈の抱えてきた絶望を知った今、これ以上彼に「愛することで誰かを失う」痛みを与えたくなかった。

「……分かりました。わたくしを連れて行きたければ、勝手になさるがよろしいですわ。……その代わり、彼には、熾祈さんにはもう手出しをしないで……っ」


 だが。

 彼女の細い肩に、柔らかく、温かい手が置かれた。

「いけませんよ、玲奈様」

 マスターだった。彼はいつもの柔和な笑みを絶やさぬまま、玲奈を優しく自分の背後へと引き戻した。


「……わたくしが、行けば……っ」

「それでは、彼が美味しいお酒を飲める場所が、この世界から一つ消えてしまいます。……私のおテリトリーで暴れる野蛮な子たちには、少し、教育が必要なようです」


 ネクタイを緩めるマスター。その背後から溢れ出すのは、MCAの現役エージェントすら戦慄させるほどの、圧倒的な静かなる威圧感。


『さあ、死神。……どちらを救うか、選びなさい? 未来の恋人か、過去の亡霊か』


 廃墟で冥に銃口を向ける熾祈。サイドテイルで無双を始めようとするマスター。

 熾祈の、魂を切り刻むような絶叫が、二つの戦場を繋ぐようにして響き渡った。



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