36 追いつきたい、抱きしめたい
豪華なスイートルームに差し込む朝の光。しかし、室内の空気は氷点下まで冷え切っていた。熾祈は狂気にも似た集中力で、一点を見つめて端末を叩いている。
「確認してくる。お前は一歩もここを動くな。ここが世界で一番安全だ」
その声に、温度はなかった。かつてローズが命じた24時間密着という言葉すら、今の彼の耳には届かない。過去の亡霊から放たれた一筋の糸が、彼の理性を容赦なく焼き切っていた。
熾祈が嵐のように部屋を飛び出した後、玲奈は冷え切った空気の中に、ただ独り取り残された。指先に残る彼のジャケットの感触だけが、虚しく熱を失っていく。
(わたくしは、ただ守られるだけの『おもちゃ』ではありませんわ……!)
昨日、自らの全力すらも拒絶された痛みが、玲奈を突き動かしていた。熾祈を縛り、今もなお彼を苦しめている過去が何なのか。それを知らなければ、一生彼の隣に立つことなどできない。
玲奈は部屋の電子ロックに手をかけ、瞳を閉じた。
(熾祈さん……熾祈さん、大好き……愛しています。わたくしを、あなたの元へ……彼の心へ通じる道へ、行かせてくださいませ……!)
それは魔力による干渉ではなく、純粋で、どこか狂気を孕んだ執念だった。
特異点の力が、彼女の願いを因果の糸として紡ぎ出す。カチャリ、と本来なら外側からの解除コードなしには動かないはずの重厚なボルトが、意思を持ったかのように勝手に後退した。
因果を歪める少女の祈りが、MCAの最新鋭セキュリティすら無力化した瞬間だった。
「熾祈さんの心も、これくらい簡単に動いてくれればいいのに」
ため息混じりに吐き出した言葉の先に向かうのは、熾祈が唯一馴染みとして心を許しているバー『サイドテイル』。
だが、今の玲奈は激しい精神的な揺らぎの中にあり、その存在自体が異物として街の闇を過剰に刺激していた。
「ねえお姉さん、一人? 景気のいい格好してるじゃん」
裏路地から現れた、血の気の多い輩が三人。熾祈が居ればなんてことは無い相手。
特異点を歪めれば相手が何事もなかったかのように通り過ぎ去るようにすることもできる。しかし……。
(力を使わなくては……でも、人を、この人たちをどうすれば遠ざければいいのか、気持ちがまとまりませんの……!)
世界を書き換える力は、使い手の明確な意思を必要とする。熾祈への愛と拒絶への恐怖で塗り固められた今の玲奈にとって、目の前の卑俗な暴力は、あまりに捉えどころのないノイズに過ぎなかった。
「どいてくださいまし……っ。わたくし、急いでおりますの!」
「ははっ! ちょっと付き合えよ。楽しませてやるから」
無粋な男の手が伸びる。玲奈が怯んで後退りすると、穏やかな声が耳に届く。
「おや。私のお店の大切なお客様に、何か御用ですか?」
低く、だが背筋が凍るほど澄んでいた。いつの間にか、輩たちの背後に一人の男が立っていた。物腰柔らかな、優しく目を細めた紳士。
「あん? 誰だてめ――」
言葉は、最後まで紡がれなかった。
マスターが軽く指先で空を弾く。ただそれだけの動作で、物理法則を無視した圧倒的な衝撃波が路地裏を吹き抜けた。輩たちは悲鳴を上げる暇もなく壁まで叩きつけられ、一瞬で意識を刈り取る。
「お怪我はありませんか、玲奈様」
マスターは、まるで散歩の途中で挨拶でも交わすかのような軽やかさで、玲奈に優しく手を差し伸べた。そして、震える彼女の瞳を覗き込み、静かに、だが厳しく告げる。
「玲奈様。あなたの力は、無闇に使ってはいけませんよ。あなたのような方は、心が乱れたまま力を使えば、いずれあなた自身がその因果に飲み込まれてしまいます」
サイドテイルのマスター。優男なバーテンダーだと思っていた玲奈は、彼の強さに口を半開きにするしかない。マスターは、優しく玲奈の背を支えた。
「熾祈さんのことで、お悩みですね?」
「どうして、それを」
「誰がどう見ても、わかるくらいにはダダ漏れですよ。熾祈さんのことを好きだと」
マスターは慈愛に満ちた、だがどこか寂しげな微笑を浮かべた。




