35 あの時、もしも自分じゃなければ彼女はどう過ごしていただろう
最上級スイートルームの静寂の中、玲奈は持てるすべての武器を投じていた。
玲奈は、ある時は熟れた果実のような艶やかさで、またある時は壊れ物を守りたくなるような可憐さで、熾祈の理性を削りにかかる。
「熾祈さん。わたくしのこと、嫌いですの?」
吐息が触れるほどの至近距離。上目遣いに、わずかに震える声。完璧な誘惑。
熾祈の心臓が、一度だけ大きく跳ねたのを彼女は見逃さなかった。鉄の仮面の下で、彼の感情が激しく揺れ動いている。
だが。
あと一歩。その境界線を、熾祈が踏み越えることはなかった。
「もういい。茶番はやめろ、玲奈」
熾祈の声は、酷く掠れていた。彼は玲奈の手を、拒絶ではなく、諭すように優しく振り払う。その優しさこそが、玲奈にとってはどんな言葉よりも残酷な壁だった。
(わたくし、何を浮かれていたのかしら)
玲奈の胸の奥で、何かが静かに音を立てて崩れていく。
世界を書き換え、因果を歪める力。MCAが恐れ、神にも等しいと謳われるその力。
けれど、そんな力に何の意味があるというのか。
(世界を変える力なんて、嘘っぱちですわ……。だって、わたくし。目の前の、たった一人の好きな男の気持ちさえ、変えられないんですもの……)
視界が熱い膜で歪む。玲奈は唇を噛み締め、力なく俯いた。
熾祈はそんな彼女の悲痛な気配に気づきながらも、ただ静かに立ち上がった。
「今日は大変な一日だった。……ゆっくり休め」
彼は迷いのない足取りで、王族用のような巨大なキングサイズベッドを玲奈に譲り、自らは離れた場所にあるソファへと向かう。
玲奈を守るための距離。彼女の運命を狂わせないための、彼なりの決死の防衛線。
「熾祈……さん……」
「おやすみ、玲奈」
横たわる玲奈に背を向け、暗闇の中で熾祈は独り、忌まわしい記憶の蓋を抉り開けていた。
脳裏に蘇るのは、かつての恋人の末路だ。
『あなたと付き合わなければよかった。……あなたに出会わなければ、私はこんなに壊れなくて済んだのに』
その呪詛が、今も熾祈の魂を縛り付けている。
玲奈を愛してはいけない。彼女を同じ地獄へ連れて行くことだけは、死んでもさせてはならない。
夜明け前。
熾祈の端末が、無機質な振動と共に一件の通知を拾い上げた。
表示された送信元は——数年前に欠番となったはずの、IDからだった。
『――地獄で、待ってるわ』
熾祈の瞳が、月光を反射して紅く、鋭く燃え上がった。




