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34 極楽浄土


 ローズに連れられ、二人が通されたのは先程の隔離室よりも上の階層。すなわち、MCA本部の最上層だった。そこは、功績を挙げたほんの一握りの最上級エージェントにのみ解放される、浮世離れしたスイートルームだった。


 鏡面仕上げの大理石、宝石をぶちまけたような夜景。そして部屋の真ん中に不遜なほど鎮座するのは、王族用かと思うほど巨大なキングサイズベッドだ。


「隔離室からランクを上げろとは言ったが、これはやりすぎだ。悪趣味極まる」


 熾祈が忌々しげに眉間に皺を寄せる傍らで、玲奈は静かに深呼吸をしていた。かつてのように赤面して立ち尽くす彼女はもういない。その瞳には、ある種の覚悟が宿っていた。


 荷物を運び込むドタバタの中、英莉花が熾祈の背後に忍び寄り、弾けるような笑顔で囁く。


「ねえねえしきぴょん、人生最大のチャンスだよ! 女の子はね、『守られた後のギャップ』に弱いの。いつもより少しだけ、声を低くして、吐息混じりに名前を呼んであげて? それだけで特異点ちゃん、イチコロなんだからっ!」


 英莉花は玲奈の元へも駆け寄る。


「いい、特異点ちゃん? ポイントは『公式命令だから仕方ない』って顔をすること! 恥ずかしがってるフリして、さりげなくパジャマの裾を――」

「ええ、分かっていますわ。英莉花さん」


 玲奈は不敵に微笑み、言葉を遮った。

「適宜、実行に移させていただきますわ」


 英莉花たちが去り、重厚な扉が閉まると、広すぎる部屋には心臓に悪いほどの沈黙が訪れた。


 熾祈は無言のまま愛銃のメンテナンスを始める。カチャリ、カチャリと響く冷たい金属音。玲奈はソファに腰を下ろすと、緩やかに脚を組み、熾祈の背中を見つめた。


 彼女の脳裏で、かつて叩き込まれた男を惑わす術理が静かに起動する。


 羞恥心など、とっくに捨てた。

 この冷徹な死神を独占するためなら、自分の中にあるすべての武器を惜しみなく投入する。それが、今の自分の任務であり、何よりの望みだからだ。


 玲奈は音もなく立ち上がり、磁石に吸い寄せられるように、熾祈のすぐ真後ろへと歩み寄った。

 ふわりと、彼女の甘い体温が熾祈の背を打つ。


「熾祈さん」


 メンテナンスの手を止め、熾祈がわずかに視線を上げる。玲奈は計算し尽くされた角度で彼を覗き込み、震えるような指先で彼のジャケットの裾を掴んだ。


「その……公式の、命令ですの。もう少し、近くにいてくださらないと……わたくし、安定しませんわ」


 潤んだ瞳、微かに震える声。すべては英莉花の助言を完璧にトレースし、磨き上げた必殺の演技。


 熾祈の心臓が、ドクリ、と大きく跳ねた。

 鉄の理性を誇る彼の心が、抗いようのない引力に引き寄せられ、無意識に彼女を抱き締めようと腕が動く。


 だが、その瞬間――熾祈の脳裏に、氷のような冷気が走った。

 今の玲奈の姿に、かつての恋人の面影が、一瞬だけ重なったのだ。


(――あなたと付き合わなければよかった)


 耳元で囁かれる呪いの声。

 心が動けば動くほど、あの絶望が自分を蝕む。目の前の少女を愛してしまえば、いつか彼女も、あんな風に自分を拒絶し、不幸になってしまうのではないか。


「……勝手にしろ。だが、あまり近づきすぎるな」


 熾祈は突き放すように言い放ち、強引に視線を銃へと戻した。

 玲奈の完璧な誘惑。それによって生じた心の揺らぎが、皮肉にも彼をさらに深い孤独の檻へと閉じ込めてしまう。


 夜景に照らされた二人の影は、重なりそうで、決して重ならないまま――。



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