32 この死神を抱きしめて良いのは私だけ
熾祈の右手に喉を掴まれたヴァレンタインは、かつて味わったことのない激痛に身を悶えさせていた。熾祈の右腕から逆流する真紅の衝動は、彼女がこれまで幾多の命から奪い、蓄えてきた生命力を内側から無慈悲に食い破っていく。
「あ、が……っ! 嫌……ああ、あああああッ!!」
捕食者から獲物へと転落した彼女は、たまらず絶叫した。体内に溜め込んだ膨大なエネルギーを血霧のように霧散させながら、死に物狂いで熾祈の拘束を振り切る。だが、その瞳にはもはや甘美な執着など微塵もなく、剥き出しの死への恐怖だけが張り付いていた。
「殺される……私、この男に食い殺される……っ!」
生存本能が逃走を選んだ。ヴァレンタインは、最も消耗している英莉花を失った力を補填する餌にするべく、獣のような爪を立てて飛びかかった。
治癒の力を使い果たし、床に膝をついていた英莉花に、回避の術はない。
「――いやっ!」
英莉花が反射的に目を逸らした、その刹那だった。
空気が爆ぜた。
ヴァレンタインの爪が英莉花の喉元に届くより速く、真紅の閃光が横合いから薙ぎ払った。
熾祈が、ただ一歩踏み込んだだけで強化床を粉砕し、逃走を図るヴァレンタインの胴体を右腕で強打したのだ。
衝撃波だけでテラスの壁が剥がれ、ヴァレンタインは紙屑のように吹き飛ぶ。熾祈は止まらない。追撃の銀弾が正確に彼女の四肢を撃ち抜き、十字架に掛けるように床へと縫い付ける。
赤く変質した高密度エネルギーのワイヤーが意志を持つ生き物のようにヴァレンタインに絡みつき、その細い四肢と首を、骨が軋む音を立てて締め上げた。
「……ぁ、あ……っ」
先ほどまでの妖艶な捕食者の面影は、もうどこにもない。赤き縄に吊るされ、泡を吹いて気絶した、憐れな獲物が転がっているだけだった。
熾祈は荒い息を吐きながら、血の気の引いた顔で呆然とする英莉花に背を向けた。
「怪我はないか、英莉花」
「し、しきぴょん……?」
助けられた。間違いなく、いつものように戦友を救ってくれた。だが、英莉花が感謝を伝えようと差し伸べた手は、なぜか彼に届くことはなかった。熾祈の周囲に渦巻く赤の残滓が、不可視の壁となって彼女を拒絶しているようだった。
熾祈の背中に、玲奈が吸い付くように抱きつく。
「お疲れ様ですわ、熾祈さん。本当に、お強くて素敵です」
玲奈の鈴を転がすような声に呼応し、熾祈の瞳からスッと真紅の閃光が引いていく。彼は玲奈の腕の中に収まると、静かに目を閉じた。
玲奈は、熾祈の荒い呼吸と温もりを全身で享受しながら、背後で立ち尽くす英莉花へと視線を向ける。その薄水色の瞳には、先ほどまでの怯えなど微塵もない。
「ふふ」
玲奈は、声を出さずに微笑んだ。
それは、英莉花がどれだけ熾祈と命の記憶を共有しようとも、今、この瞬間の彼を完全に支配しているのは自分であるという、残酷なまでの勝利宣言だった。




