24 汚れた手の残温
意識の底、底知れぬ深淵から這い上がってきた熾祈が最初に見開いた視界は、徹底的に殺菌されたMCA本部の、無機質なまでに真っ白な天井だった。
鼻腔を突く強い消毒液の匂い。全身を苛む、刺すような鈍痛。特に右腕は、内側から細胞ごと焼き切られたような熱を帯びたまま、重厚な医療用拘束具でベッドに固定されている。
「……生きて、いたのか」
掠れた声が、静かな病室に落ちる。
死の淵にいた自分をこの現世へ引き戻したのは、つい先程まで護衛としてセーフハウスに来てくれた後輩・速水の迅速な救護判断だった。
自動ドアが滑るように開き、規則正しいハイヒールの音が硬い床を鳴らす。現れたのは、特務課のリーダーであるローズだった。
彼女はいつものように毅然とした、隙のない冷徹な態度を崩さなかったが、その緋色の瞳には隠しきれない安堵の色が揺れていた。
「バカな男ね、熾祈ちゃん。あの状況で、あんな無茶な力を解放するなんて。速水が間に合わなければ、貴方の右腕だけじゃなく、心臓まで焼き切れていたわよ」
熾祈は視線を天井に向けたまま、小さく吐息を漏らす。
「管理対象を、護るのが仕事だ」
「ええ、仕事ね。でも、死んだら管理もクソもないわ。……ゆっくり休み、死神さん。貴方の『お守り』は、ずっとそこで待っているわよ」
ローズは短く告げると、身を翻して部屋を後にした。入れ替わるように、部屋の隅で気配を殺していた影が、ゆっくりと動き出す。
熾祈は、近づいてくる玲奈の気配を察し、咄嗟に瞼を閉じた。
今の自分には、彼女の瞳を直視する資格などない。あの雨の夜、自分は理性を捨てて怪物になった。その悍ましい姿を見せた後で、どんな顔をして向き合えばいいのか分からなかった。
ベッドの傍らに膝をつく気配がする。
玲奈の衣服には、浴びた熾祈の返り血が、逃走の過酷さを物語るように染み付いたままだ。彼女は熾祈の左手に、震える指先をそっと重ねた。
「……熾祈さん」
熱を帯びた、震える声。熾祈は呼吸を殺し、深く眠っているふりを貫く。
「ごめんなさい。私が弱いせいで、貴方をあんな姿にさせてしまいましたわね」
玲奈は熾祈の包帯に巻かれた大きな手を、慈しむように両手で包み込んだ。その手のひらの震えが、熾祈の肌に直接伝わってくる。
「でも……貴方が怪物だと言うのなら、私はその怪物に恋をした、ただの一人の女です」
熾祈の心臓が、大きく跳ねた。
かつての女は、彼の汚れを、血の匂いを、その存在そのものを否定して去っていった。だが、この少女は違う。
「地獄へ落ちると決めました。泥に塗れても構わないと。たとえ貴方の手がどれほど血に汚れようとも、あの雨の中、私を抱き寄せてくれたその温もりだけは私にとって、世界で唯一の、清らかな光ですの」
玲奈は熾祈の手の甲に額を押し当て、祈るように、そして誓うように言葉を紡ぐ。
「愛しておりますわ、熾祈さん。貴方が貴方を許せなくても……私は、永遠に貴方の全てを、その罪さえも肯定いたします」
病室に、玲奈の抑えきれない啜り泣きだけが響く。
熾祈は、奥歯を噛み締めて必死に堪えた。堪えなければいけない感情の名前を明確に出せていないが、心が揺れるこの状態を、止めなければならないとずっと堪えた。
救いようのない馬鹿だな、お前は――。
心の中でそう毒づきながらも、握られた左手の指先に、ほんの僅か、彼女の熱に応えるような微弱な力を込めた。
彼女には気づかれない程度の、けれど確かな意思。
護るべき管理対象が、いつの間にか自分を救う存在へと変わっていく。
死神の凍りついた心が、少女の涙と告白によって、静かに、けれど決定的に融け始めていた。




