23 深紅
立ち上がった熾祈から放たれるのは、もはや救済の光ではなかった。
それは粘り気のある、深淵の底から這い出してきた影のような赤の波動。ノワールが放つ黒の粒子が熾祈に触れた瞬間、それは打ち消されることさえ許されず、圧倒的な質量によって無慈悲に押し潰された。
「なんだ、その色は。不純物が混ざり、もはや赤ですらないじゃないか」
初めてノワールの声音に、明確な動揺が混じった。彼は白の幾何学障壁を幾重にも展開し、防御の層を厚くする。だが、熾祈が濡れたアスファルトを一歩踏みしめるたび、地面は溶けるように形を歪め、ノワールの障壁は薄氷のように、脆く、無残に砕け散っていく。
熾祈の右腕が、唐突に異様な音を立てて鳴動を始めた。
ドクン、ドクンと、脈動に合わせて服の隙間から、禍々しい赤の光が漏れ出す。赤と黒が順々に明滅していく。
「……っ、死神の分際で、その域まで届くというのか……!」
ノワールが初めて余裕を捨て、全出力の白を前方に展開する。
熾祈の右腕に凝縮された赤が一点に収束し、全てを貫かんとする赤黒い閃光となって放たれた。
それはこれまでの衝撃波とは一線を画す、概念的な破壊の奔流。
ノワールはそれを消滅させようと試みるが、熾祈の放つ一撃には、彼自身の絶望と執着が混ざり合った黒に近い破滅的な威力が宿っていた。
「――が、あぁぁぁっ!!」
光の盾を貫通し、紅蓮の光線がノワールの身体を正面から呑み込んだ。路地裏の壁が、雨粒が、そして大気が、その暴力的な熱量に焼かれて一瞬で蒸発していく。
凄まじい爆煙の中、玲奈はノワールが消滅したと確信した。
だが、霧散していく煙の向こう側から、のらりと、幽霊のように一つの影が立ち上がった。
漆黒のコートはボロボロに焼け落ち、自慢の白い肌は無惨に焼け焦げている。しかし、その顔に浮かんでいるのは、この世のものとは思えない恍惚の笑みだった。
「……素晴らしい。素晴らしいよ、熾祈! ただの”赤”が、一人の女への執着だけで、理を焼き切るほどの地獄の色に深化するなんて!」
ノワールは自身の傷口から流れる血を慈しむように舐めとり、震える声で熾祈を称賛する。
「無粋なノイズも近づいているようだ。今日のところは、君という傑作に免じて退くとしよう。その色を大切に育むといい。君が完全に黒に堕ちた時、改めて僕のコレクションに加えてあげるよ」
ノワールは影の中に溶け込むようにして、嘲笑と共に姿を消した。
敵の気配が完全に消えた瞬間、熾祈の右腕の明滅が止まり、全身から立ち昇っていた禍々しいオーラが霧散した。
糸の切れた人形のように、その場に崩れ落ちる熾祈。玲奈は悲鳴のような吐息を漏らし、彼の大きな身体を必死に受け止めた。
「熾祈さん! ……熾祈さん!!」
雨に濡れた彼の冷たい頬に、玲奈の温かい涙が落ちる。
熾祈は意識が混濁する中で、震える指先で玲奈を拒むように、しかし微かにその衣類を掴みながら、途切れ途切れに呟いた。
「……玲奈……。……汚れた……俺の身体に、触れるな……」
死神の瞼がゆっくりと閉じ、深い闇の中へと沈んでいった。




