19 死神の帰還と地団駄お嬢様
セーフハウスのドアを開けた瞬間、熾祈の目に飛び込んできたのは、ソファで玲奈の頬に手を添え、陶酔したような表情で顔を近づけている後輩・速水蓮の姿だった。
玲奈は熾祈の気配を察し、あえて微かに目を閉じ、儚げに身を委ねる最高の一枚を演出してみせた。
だが、熾祈の反応は、玲奈の計算を無慈悲に、そして残酷なまでに裏切るものだった。
激昂も、突き飛ばすような衝撃もない。彼はただ、雨に濡れたコートを脱ぎながら、感情の抜け落ちた声で淡々と告げた。
「速水。気が済んだら、もう帰宅していいぞ。お前のシフトは終わりだ」
その言葉には、嫉妬も怒りも、微塵の動揺も混じっていなかった。まるで、散らかった部屋の片付けを促すような、あまりにも事務的な響き。
玲奈の睫毛が、驚きでピクリと跳ねた。
熾祈が自分を奪い返し、独占欲を剥き出しにして、あの低い声で自分を叱咤してくれる――そんな期待は、音を立てて崩れ去った。
「あ、あの、先輩! これは、その……!」
慌てて飛び起きた速水が冷や汗を流しながら弁明しようとするが、熾祈は一瞥もくれず、キッチンの水道を捻って手を洗い始めた。
「熾祈さん。本気で、そうおっしゃるのですか?」
玲奈の声には、隠しきれない困惑と落胆が混じっていた。だが、熾祈は背を向けたまま、氷のように冷淡な、しかし彼なりの、呪いのような配慮を口にする。
「速水は三課のエース候補だ。俺のような、死の臭いしかしない男とは違う。……お前が望むなら、それを止める権利は俺にはない」
その言葉に、玲奈の心に鋭い痛みが走った。
彼女はすぐさま立ち上がり、速水との間に物理的な距離を置くと、氷のような微笑を浮かべて速水を一瞥した。
「速水様。お引き取りくださいませ。私は今から、熾祈さんのために夕飯を用意しなければなりませんの。邪魔をしないでいただけます?」
特級の淑女らしい丁寧な口調。だが、その瞳には「これ以上私の作戦を邪魔するなら、その舌を根元から引き抜きますわよ」という明確な拒絶と殺意が宿っていた。
速水はその冷気に射すくめられ、「失礼します!」とだけ言い残して、逃げるようにセーフハウスを後にした。
残されたのは、重苦しい沈黙が漂うリビング。
熾祈はソファに腰を下ろし、ボウモアのボトルに手を伸ばした。玲奈はムスッとした表情で、必要以上に大きな音を立てて野菜を刻み始める。まな板を叩く音が、静かな部屋に苛立ちを撒き散らしていた。
「九条」
不意に熾祈が声をかけた。玲奈は包丁の手を止め、僅かな期待を瞳に宿して振り返る。
「はい、何でしょうか。熾祈さん」
「速水のような男が、好みなのか?」
熾祈の問いには、裏も、皮肉も、嫉妬さえもなかった。ただ純粋に、光の中に住む後輩の方が、自分のような欠落した人間に捕らわれた薄幸な少女には相応しかったのではないかという、あまりにも無自覚な確認だった。
(……はぁ!? ほんっとうに、この方は……!!)
玲奈の脳内では、熾祈を百回ほど往復ビンタし、その胸ぐらを掴んで揺さぶるシミュレーションが即座に実行された。そこに頭突きも追加していい。
あんなに見せつけたのに。あんなに心を掻き乱そうとしたのに。この男は、嫉妬するどころか、本気で自分の幸せを他所に譲ろうとしているのだ。
「熾祈さんのバカ。本当の、救いようのない大バカ者ですわ」
玲奈は可愛らしく、しかしどこか凄絶に頬を膨らませ、再びまな板に向き直った。
熾祈は、なぜ自分が罵られたのかを全く理解できないまま、琥珀色の液体を煽った。
死神の城壁は、依然として高く、冷たい。
だが、その不器用すぎる拒絶こそが、玲奈の独占欲をさらに深く、逃れられない狂気へと燃え上がらせていく。




