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16 残り香と甘い侵食


 水無月鏡香が去った後、バーの空気には彼女が愛用する、凛とした冷たさを湛えた香水の残り香が漂っていた。

 玲奈の薄い緑色の瞳が一瞬だけ険しく細められたが、彼女はすぐに深く、艶やかな呼吸を一つ吐き出した。その刹那、彼女の纏う空気が嫉妬に狂う少女から、かつて数多の権力者を骨抜きにした特級のキャストのそれへと、完璧に切り替わる。


「熾祈さん。不快な残り香は、私がすべて上書きして差し上げますわ」


 玲奈は、鏡香が触れようとした熾祈の肩にそっと指を滑らせた。それは、硬く凝り固まった死神の筋肉を、正確に、そして扇情的に解きほぐすプロの指使いだった。

 わずかに開いた彼女の胸元から、むせ返るような百合の香りが立ち昇り、熾祈の鼻腔を執拗に突き刺す。


「何をしている」


「『胡蝶の夢』での私の価値は、この指先だけで決まっていましたの。私、こう見えてお店では一番人気でしたのよ?……少しだけ、力を抜いてくださいませ?」


 玲奈は熾祈の耳元で、熱い吐息が触れるほどの至近距離で囁いた。そのまま、彼のグラスを引き寄せる。琥珀色の液体が、彼女の潤んだ唇に吸い込まれていく。間接キスなどという生温い言葉を置き去りにし、彼女は熾祈の瞳をじっと見つめながら、わざとゆっくりと喉を鳴らした。


「ふふ、あなたの味がしますわ……なんて。熾祈さん、今日はもう、難しいお仕事の話はやめませんか?」


 しなやかな肢体を熾祈の腕に預け、柔らかな重みを押し当てる。上目遣いに向けられる誘惑の視線は、並の男であれば魂ごと持っていかれるほどの破壊力を持っていた。

 だが、対する死神の反応は、どこまでも氷のように冷淡だった。


「酒の味が混ざる。自分の分を頼めと言ったはずだ」


 熾祈は玲奈の誘惑を、物理的なノイズとして切り捨て、無造作に腕を引き抜いた。そのまま、空になったグラスをカウンターの奥へ差し出す。


「マスター、口直しだ。同じのをもう一杯」


 完璧に計算された玲奈の極上の接待を、一瞬で無価値なものとして踏みにじったのだ。

 完璧な微笑みを貼り付けていた玲奈だったが、さすがにこれには頬を限界まで膨らませた。


「……っ、熾祈さんのバカ! 石像! 死神! この世で一番、デリカシーという言葉から遠い場所にいらっしゃいますわ!」


 先ほどまでの妖艶な美女は霧散し、玲奈は「むーっ!」と子供のようにむくれ、そっぽを向いてしまった。だが、その怒りも砂時計の砂が落ちるほども続かない。彼女はすぐにまた、熾祈の袖を遠慮がちに掴み、「次は、絶対に酔わせて差し上げますから……」と悔しそうに、けれど愛おしそうに呟いた。


 熾祈は、その様子を横目に二杯目のボウモアを煽った。

 かつての女が自分に向けた冷淡な拒絶とは正反対の、この騒がしく、どこまでも一途な熱。その温度に、長年かけて築き上げた彼の城壁が、少しずつ湿り気を帯びていくのを自覚せずにはいられない。


(……面倒な女だ)


 刹那、その穏やかな心地よさを切り裂くように、マスターが熾祈にだけ聞こえる低音で釘を刺した。


「熾祈さん。さっきの鏡香さんが言っていた『チップの情報』。あれは多分、彼女――玲奈さんに関わることです。あまり彼女のもてなしに酔いすぎない方がいいかもしれませんね」


 熾祈の足が、店を出る一歩手前で止まる。

 隣で「次は絶対に落としてみせますわ!」と無邪気に意気込んでいる玲奈。

 彼女という存在そのものが、新たな動乱、あるいは世界の崩壊を招く引き金になろうとしていることを、死神はまだ知らない。



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