15 銀白の微笑
グラスの中で、氷が小さく音を立てる。琥珀色の静寂に浸っていたバー『サイドテイル』の扉が開いたのは、その直後だった。重厚な空気の中に波紋を広げるように、静かで、しかし確かな存在感を伴った靴音が響く。
「あら。こんなところで油を売っているなんて、相変わらず暇な死神ね」
聞き馴染みのある、凛とした涼やかな声。熾祈が顔を上げると、そこには銀白のロングヘアを揺らし、丸メガネの奥でオッドアイを細めた美女――水無月鏡香が立っていた。
右目は深海のような青、左目は燃えるような赤。その特異な色彩と、タイトなスーツ越しにも隠しきれない豊満な曲線が、彼女の持つ冷徹な知性を残酷なまでに際立たせている。
「水無月……。特務課の人間が、三課の行きつけに何の用だ」
「用があるから来たのよ。……それから、相変わらず無愛想ね。少しは歓迎したらどう?特務課だってサイドテイルにはお世話になってるんだから、そんなしかめっ面で歓迎しなくてもいいでしょ」
鏡香は当然のように熾祈の隣に腰を下ろそうとした。だが、そこには既に玲奈という先客がいた。
玲奈の薄い緑色の瞳から、一瞬で光が消える。彼女は完璧な淑女の微笑を貼り付けたまま、隣に立つ銀髪の美女を、爪先から髪の先まで検品するかのように冷たく値踏みした。
「……熾祈さん。この方は、どちら様でしょうか?」
玲奈の声は穏やかだった。しかし、その温度は絶対零度に近い。鏡香は玲奈の視線を正面から受け流し、自慢の胸元を強調するように腕を組むと、唇の端を皮肉げに釣り上げた。
「私は水無月鏡香。この男とは、まあ……腐れ縁のようなものよ。あなたは? 噂に聞く、可愛らしい"お人形さん"かしら」
「お人形……。ふふ、面白い冗談ですわね」
玲奈が椅子から立ち上がり、鏡香と対峙する。玲奈ですら出会ったことのない、完成された美を持つ鏡香。対して、自分のプラチナブロンドを敢えてふんわりと揺らし、可憐さを武器に一歩も引かない玲奈。バーの空気が、硝煙の匂いすらしないのに、物理的な圧力を伴って軋み始めた。
「熾祈。直近のヴァニシング・オーダーの掃討、お疲れ様。三課の報告書、読ませてもらったわよ。またあんな無茶な力の使い方をしたんですって? 特務課が尻拭いをする身にもなってほしいものね」
鏡香がわざとらしく、熾祈の肩へ指を這わせる。それは熾祈の仕事ぶりと、その身を削るリスクを熟知しているという自負。そして、玲奈の感情を逆撫でするための、計算高い遊びだった。
その瞬間。玲奈の手が、電光石火の速さで鏡香の手首を掴み取った。
「触らないでいただけますか。熾祈さんの身体を案じるのは、私の役目です。特務課の"同僚"さんが、任務のついでに気安く触れていい場所ではありませんわ」
玲奈の細い指先が、鏡香の白い肌に食い込んでいく。鏡香もまた、オッドアイを険しく細めて玲奈を睨み返した。
「いい度胸ね。熾祈、あなた、こんな重たい女を飼っているの?」
「飼っている覚えはない。勝手についてくるだけだ」
熾祈はボウモアを煽り、視線を逸らした。鏡香が現れると、いつも自分のペースが狂わされる。だが、今の状況はそれ以上に最悪だった。玲奈の背後から立ち昇る、言葉にならないほどの黒い執着。そして、鏡香が自分に向ける、皮肉の裏に隠された遊び心。
「熾祈さん。今夜は早く帰りましょうか? あなたの『お掃除』を、入念にして差し上げなければなりませんから」
玲奈が熾祈の腕を強く抱きしめ、勝利を確信した侵略者の顔で鏡香に微笑みかける。鏡香はそれを見て、フンと鼻を鳴らした。
「あなたが炙り出した奴らの残党。死体から見つかったチップから、かなりややこしい情報が出てきたの。この子に関しても気になるデータがあるから、そのうち三課に顔を出すかも。……とはいえ、この様子じゃ、今のあなたはお守りに手一杯みたいね。せいぜい、その“お人形”に壊されないよう気をつけなさい」
鏡香はそれだけ言い残すと、銀髪を翻して颯爽と去っていった。
残されたのは、かつてないほど濃密な沈黙。玲奈は鏡香が立っていた場所を、汚物でも見るような目で一瞥し、熾祈の耳元で囁いた。
「あの方、嫌いです。次にあんな風にあなたに触れたら、私、あの方の綺麗な髪を、あなたの好きな赤で染めてしまうかもしれません」
熾祈は、何も答えず酒を飲んだ。
かつての女は、自分への興味を失って去った。だが今、自分の隣では、同僚への殺意を愛だと言い張る怪物が、低く喉を鳴らしている。




