14 金曜日の色
金曜日の夜。バー『サイドテイル』の空気は、今日も琥珀色の灯りに満たされていた。
熾祈はカウンターでボウモアのグラスを傾け、氷が溶ける微かな音に耳を澄ませる。だが、本来あるべき孤独な静寂は、隣に座る玲奈の熱っぽい視線によって、逃げ場のない緊張感へと変えられていた。
「熾祈さん。今日は少し、お仕事以外のお話を聞かせていただけませんか?」
玲奈はカクテルグラスを指先で弄びながら、悪戯っぽい笑みを浮かべる。マスターは何も言わず、二人のやり取りを愉しむように、少し離れた場所で静かにグラスを磨き始めた。
「断る。俺の話など、聞いて面白いものは何一つない」
「あら、私はあなたの呼吸一つにも興味がありますわ。例えば、そうですわね。熾祈さんの、好きな女性のタイプなどは?」
熾祈は、喉を通り抜けるピートの香りに意識を沈めようとした。だが、無機質な酒の味を突き抜けて、脳裏にはかつて付き合った女性の、冷え切った顔が掠める。
『あなたと、付き合わなければよかった』
その一言は、今も心臓の奥底で消えない棘となり、彼に二度と誰も愛するなと命じ続けている。マルチバースの彼方で、自分以外の男と幸せそうに笑っていたあの女の幻影。熾祈はグラスの中の琥珀色を見つめたまま、低く吐き捨てた。
「静かな女だ。余計な口を利かず、俺の領域に踏み込まない女」
それは、今まさに隣で微笑んでいる玲奈への、あからさまな拒絶だった。だが、玲奈は怯むどころか、むしろ慈しむように身を乗り出してくる。
「では、私は正反対ですね。でも、安心してください。私があなたの沈黙を全て、愛の言葉で埋め尽くして差し上げますから」
執念すら感じる玲奈の肯定。熾祈は深く、重いため息を吐き、二杯目の注文をマスターに促した。
「じゃあ、もう一つ。もし、熾祈さんが誰かをデートに誘うとしたら、どこへ行きたいですか?」
「射撃場か、あるいは死体すら残らない無人島だ」
「ふふ、素敵。二人きりになれる場所、ということですね? 私、無人島でもどこでも付いていきます。熾祈さんの弾丸が尽きるまで、私があなたの隣にいますわ」
会話が噛み合っているようで、決定的に何かが狂っている。だが、その狂いこそが、今の熾祈にとって過去の呪縛を忘れさせる唯一のノイズだった。
マスターが静かに、新しいグラスを差し出す。
「熾祈さん。無人島に行くなら、しっかりとした酒を持っていくことですね。隣の彼女が、酒よりも酔わせるタイプなら、なおさらね」
「マスター、お前まで茶化すな」
熾祈は苦々しく言い放ち、玲奈に背を向けるようにして一気にグラスを煽った。
かつての恋人が見た幸せの中に、自分はいなかった。自分を選ばなかった女の記憶が、今も鎖となって自分を縛り付けている。
だが、今、現実という名の夜にいるのは、理想とは正反対の、あまりにも重くて、あまりにも一途な侵略者だ。
「熾祈さん、次は私の番です。私の好きなタイプは――」
「聞かなくていい。大体想像がつく」
「あら。相思相愛、ということですね?」
玲奈の艶やかな微笑みが、バーの薄明かりに溶けていく。
熾祈は、自分の堅牢な城壁が、この金曜日の夜を重ねるたびに、少しずつ削り取られているのを感じていた。それが救いなのか、それとも新たな地獄の始まりなのかは、まだ分からない。
ただ、喉を焼くボウモアの味だけは、いつもより少しだけ尖っていない気がした。




