13 死神の聖域、侵略者の手料理
熾祈が目を覚ました瞬間、脳が真っ先に異常を検知した。無機質で鉄の匂いが漂うはずの男の隠れ家が、微かな柔軟剤の香りと、食欲をそそる焼きたてのパンの匂いに占拠されていたからだ。
リビングへ向かうと、そこには完璧にプレスされた熾祈の赤いシャツが掛けられ、彼がいつも適当に淹れていた安物のコーヒー豆は、玲奈の手によって最も香りが引き立つ温度で丁寧に抽出されていた。
「おはようございます、熾祈さん。傷、もう大丈夫なのですか?」
エプロン姿の玲奈が、当然のように微笑む。彼女のプラチナブロンドが日光に当たって輝かしい。熾祈の肩の傷は、彼の内なる"赤の力"によって既に塞がっていた。熾祈は自分の聖域が、たった一晩で玲奈という色に塗り替えられていくことに、ある種の恐怖――あるいは、それ以上に質の悪い抗えない快適さを感じていた。
「勝手な真似をするな。仕事だ、もう行く」
熾祈は突き放すようにジャケットを羽織り、家を出る。背中に向けられた玲奈の「お気をつけて。帰りを待っています」という、鈴を転がすような声に、彼は一度も振り返らなかった。
だが、その後の任務は最悪だった。勝手に別次元の情報を無法に持ち出して売りさばこうとする犯罪者の潜伏先を掃討している最中も、引き金に指をかける瞬間にさえ、あの「待っています」という声が耳の奥でリフレインする。集中がわずかに乱れ、標的の急所を三ミリ外した。
(……チッ。あの女、毒でも盛ったか)
そんなこんなで数日が過ぎ、熾祈にとって待望の金曜日。彼は苛立ちを鎮めるためにバー『サイドテイル』の扉を開けた。だが、その後ろには当然のように玲奈の姿があった。
「熾祈さん、まさか連れを伴うとは。明日は雪でも降るかもしれませんね」
カウンターの奥で、マスターが事情を知り抜いた上での意地悪な笑みを浮かべる。熾祈は苦々しい顔でボウモアを注文した。細目だが顔立ちは整っており、物腰柔らかな紳士であるマスター。見た目は20代中盤に見えるのだが、その正体は、多くのエージェントの師でもある実力者だ。
本来、熾祈はここへ一人で来るはずだった。だが、家を出ようとした彼に、玲奈は穏やかな、それでいて逃げ場のない笑顔でこう言い放ったのだ。
「あなたがいない間に、このお部屋をピンクのレースでファンシーにして差し上げますけれど……よろしいですか?」
その最凶の脅しに、死神は屈せざるを得なかった。
「マスター。熾祈さんは普段、どんな風にお仕事をされているのかご存知ですか?MCAのお話は耳にしたことがありますが、具体的にはあまり知りませんので」
玲奈は、熾祈が止める間もなくマスターへ問いかける。
「熾祈さんの本職はMCA第三課。通称”清掃班”です。次元の歪みが生んだ汚物や、表に出せない情報を握る人物を人知れず処分する……いわば、汚れ仕事のプロですよ」
「汚れ仕事のプロ……ですか」
玲奈は『胡蝶の夢』で見せた熾祈の戦いぶりを思い出しながら、核心に触れる質問を重ねた。
「では……熾祈さんの目が赤く光ったことがありましたが、あれは何なのですか?」
マスターの目がわずかに細められた。
「次元能力。次元の壁を越えて力を引き出す異能です。簡単に言えば、スーパーパワーって感じですよ」
「スーパーパワー、ですか」
「漫画とか映画に出てくるようなアレです。ま、あくまで例えですが。玲奈さん、あの”赤”は少し特別なんです。攻撃に特化している分、使い続ければ精神も肉体も現世から離れ、最後には消えてしまうかもしれない。文字通りの、死神の力ですよ」
マスターの言葉に、玲奈の薄い緑色の瞳に微かな陰りが差す。
「勝手に喋るな。マスター、余計な講釈はいい。……九条、お前もだ。要らん話をして俺の時間を無駄にするな」
熾祈はウイスキーを煽り、居心地の悪さを隠すように突き放した。だが、玲奈は悲しむどころか、その瞳にさらに深い執着を宿して微笑んだ。
「ふふ、照れているのですね。大丈夫ですよ、熾祈さん。あなたがどこへ消えようとしても、私が必ず見つけて、引き戻して差し上げますから」
最強の死神が、一人の女のペースに完膚なきまでに乱される。その光景に、マスターは静かに新しいグラスを差し出した。




