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12 逃げ場のない安息


 『胡蝶の夢』から這い出した時、東の空は白み始めていた。

 熾祈の歩みは重い。能力を使用した反動と、ヴィクターから受けたダメージが、鉛のように身体に沈殿している。


「熾祈さん、無理をしないで……。さあ、私に預けてください」


 玲奈が熾祈の腰に腕を回し、自分の肩を貸すようにして密着してきた。

 ガウンから覗く白い肌の熱が、返り血で汚れた熾祈のシャツ越しに伝わる。玲奈の表情は、地獄のような死闘を終えた直後とは思えないほど、穏やかで――どこか満足げだった。


「……離せ。一人で歩ける」


 熾祈は苦々しく吐き捨て、彼女を振り払おうとする。だが、玲奈は「いけません」と、慈愛に満ちた、しかし拒絶を許さない強さでその腕に力を込めた。


「私の命を救い、私の主に勝った方です。その方を支えるのは、私の義務ですわ」


 鬱陶しそうに顔をしかめる熾祈と、その横顔を愛おしげに見上げる玲奈。

 二人の影は、朝靄の街に奇妙なコントラストを描きながら、MCAのセーフハウスへと消えていった。


 セーフハウスの無機質な部屋に戻り、熾祈は椅子に深く身を沈めた。

 消毒液の匂いだけが漂うその場所は、本来なら第三課――「不要物の消去」を専門とする、熾祈のような掃除屋クリーナーが束の間の休息を得るための空間だ。


 デスクの端末が震え、ホログラムのローズが姿を現した。


「熾祈ちゃん、生還おめでとう。ヴィクターとの立ち回り、モニター越しに見ていたわ。……『赤』の力、少し出しすぎたんじゃない?」


「……報告は後だ。それより、この女を早く引き取れ。俺は第三課だ。保護対象の引き受けや民間人のアフターケアなんてのは、俺たちの管轄外だろうが」


 熾祈の言葉は正論だった。

 第三課は”消す”のが仕事であり、人間を”活かす”ためのリハビリや保護は、別の部署が担当すべきことだ。


 だが、ローズは煙管の煙をゆったりと吐き出し、艶然と微笑んだ。


「そうね、確かに事務手続き上は管轄外。でも、彼女は今や一文無し。ヴィクターという巨大な後ろ盾を失って、外に出ればすぐに別のハイエナに食い物にされるわ」


「知るか。そんなものは強制的に連れて行け」


「ダメよ。彼女は今回の件の重要参考人。そして……熾祈ちゃん」


 ローズの瞳が、面白がるように細められる。


「あなたが撒き散らした火種でしょ? 最後まできっちりとお片付けするのが、掃除屋クリーナーの本当のお仕事でしょ? 彼女が社会に馴染めるようになるまで、責任を持って”清掃”を完了させなさい」


 熾祈は深い溜息と共に天を仰いだ。

 お片付けという言葉。それは熾祈がプロとして否定できない、唯一の縛りだった。


「一ヶ月だ。それまでに自立の目処を立てろ」


「ええ、期待しているわよ」


 通信が切れる。

 部屋には、熾祈と玲奈の二人だけが残された。


「聞いたか。一ヶ月だ」


 熾祈が冷たく告げると、玲奈は微笑みを深めた。彼女は熾祈の無機質なデスクの上に、どこからか見つけてきたグラスに水を注ぎ、そっと置いた。


「一ヶ月……。長いようで、短いですね」


 玲奈は熾祈の前に膝をつき、彼の負傷した手に、自分の頬を寄せた。


「でも、十分ですわ。一ヶ月もあれば、この部屋の隅々まで私の色に染め上げることも……あなたの孤独を、私の愛で塗り潰すことも」


 熾祈はかつての女に言われた呪いの言葉を思い出す。

 だが、今、目の前の少女が差し出しているのは、救いという名の底なし沼だった。

 熾祈は不自由な手で、苦いウイスキーを煽る。

 第三課の死神にとって、この”後片付け”は、これまで手掛けてきたどんな暗殺任務よりも、長く、困難なものになるに違いない。



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