わりにあわない
丘の上の梨農園。最後の収穫の、朝だった。
凛は、約束どおりやってきた。指先の球体をくるりと回すと、たわわに実った梨が、木という木から、いっせいに宙へ昇りはじめた。三十年ぶんの、最後の実りが、しゃぼん玉になって、空へ。
「さあ、始めよっか。町ぜんぶへの、最後のセキュリティチェック」
「ヒロユ‼」まひるが叫んだ。「あんた、最強なんでしょ。なんとかしてよ‼」
ヒロユは、木陰で寝転がったまま、あくびをした。
「やめときな」ものすごく、めんどくさそうに。「あいつの球体は、"力"を跳ね返す。強く殴るほど、強く返ってくるだけ。......おれが本気を出したら、この畑ごと、跳ね返って、消える。知らんけど」
キキが五枚を焼き、まひるがククの三択を叩く。けれど、また。奇跡は軽く浮かび、事象は跳ね返され、あさっての方へ転がった。
力では、届かない。誰の力でも。
梨が、どんどん空へ吸われていく。おじさんは地面に膝をついて、それを、ただ見上げていた。
「......もう、ええ。もう、ええんや」
* * *
「――待て」
太郎だった。
「昨日の。あいつは、何も、生まない。奪って、混ぜて、返すだけ。撹乱しか、できない」拳を握る。「なら......"生む"側が、要るんだ。奪われないように守る、んじゃない。"守りたい"って、本気で思うやつが、一人」
「そう」リラが、静かに、正確に継いだ。「彼の力は、"どうでもいい"にしか、効かない。町ぜんぶが見て見ぬふりだから、好き放題できる。――"どうでもよくない"一点が立てば、そこだけは、彼の力は届かない」
全員の視線が、地面に膝をついたおじさんに集まった。
けれど、おじさんは、うつむいたままだった。もう、心が折れていた。
まひるが、駆け出した。
演説は、しなかった。ただ――宙へ昇っていく梨に、素手で飛びついた。一個、また一個、腕の中にかき集めて、胸に抱えて、離すまいとしがみついた。
見ず知らずの、他人の畑の、梨に。
「......あたしが、こんなに、悔しいのに」梨を抱えたまま、まひるは、おじさんを睨んだ。「三十年、育てた、あんたが。なんで――諦めてんのよ‼」
おじさんの目が、見開かれた。
小さな女の子が、わしの畑のために、泣きそうな顔で、宙に飛びついている。その姿が、折れたはずの心の、いちばん奥の、消えかけた薪に――ぼっ、と、火を点けた。
三十年。育ててきた。この手で。
「......ああ」おじさんは、ふらりと立ち上がった。「......そや。わしの、畑や」
「クク‼」まひるが振り向いた。「このおじさんに、許可‼」
黒猫は――あの男が去ってから、ずっと沈黙していた黒猫は、ゆっくりと目を開けた。
『......いいだろう』
三枚のカードが、おじさんの前に展開した。派手な力は、ひとつもない。【番犬】【かかし】【灯り】。畑を守る、ただの、ささやかな道具たち。
『選べ』ククが言った。『あんたの、畑だ』
おじさんの節くれだった指が、震えながら――【灯り】に触れた。
畑に、あかりが灯った。
そして。
おじさんの立つ、その一点だけ。
宙へ昇っていた梨が、ぴたりと止まった。しゃぼん玉の魔法が、解けた。梨は、ただ、まっすぐに――落ちてきた。差し出された、皺だらけの両腕の中へ。
おじさんは、自分の梨を、一個、また一個、受け止めた。落とさないように。抱きしめるように。涙を、ぼろぼろこぼしながら。
その一点にだけ、凛の力は、どうしても届かなかった。
* * *
その間、キキとククは、必死に時間を稼いでいた。
キキが五枚で足場を組み、ククの三択が、跳ねる梨の弾幕を片っ端から無効化していく。
「キキ‼ 後ろにゃ‼」
ぼいん、と迫った梨を、ククが『どけ』とキキを突き飛ばしてかわす。すぐ次の瞬間、ククの死角へ、キキが体を割り込ませて庇う。
――噛み合った。悪態も、皮肉も、なしで。ほんの、一瞬。
そして、次の瞬間には。
「借りは、返したにゃ」
『貸した覚えは、ない』
もう、いつもの憎まれ口に戻っていた。
* * *
凛は、おじさんを見ていた。
自分の梨を抱きしめて泣く老人を。その一点で、無力になった、自分の力を。
一拍、長く見た。それから、目をそらした。
そして、凛は、肩をすくめた。
「あー。今日は、割に合わないな」
ふわりと宙に浮かぶ。倒された、のではない。降りていく気が、失せただけ。
去りぎわ、凛は、黒猫を見下ろして、低く言った。
「......そういえば。キミたち、"新しい神様"、探してるんでしょ」にやり、と。「......前のが、"どうなったか"。知ってて、集めてるの?」
黒猫のしっぽが、また、止まった。
答えは、なかった。凛は、それで満足したように笑った。次にまばたきしたとき、街灯の上には、もう誰もいなかった。
* * *
ぜんぶが、直ったわけじゃない。凛は、逃げた。町の見て見ぬふりは、たぶん、明日も続く。穴は、まだ、そこにある。
でも。おじさんの畑の、最後の収穫は、無事だった。
「来年も、やるわ。梨」おじさんは、洟をすすって笑った。今度は、泣き笑いじゃなかった。
まひるが、へなへなと座り込んだ。
「太郎」リラが、こともなげに言った。「あなた、さっきの三択のとき、少し、"壊す"側に振れてた。人助けで、戻しなさい。ゼロに」
「なんで俺だけ‼ うわ、マジで針、動いてるし」
太郎は、ぶつくさ言いながら、落ちた梨を拾い、破れたネットを直しに立ち上がった。軌道修正である。
木陰では、ヒロユが、いつのまにか梨をかじっていた。
「......甘いじゃん」あくび。「知らんけど」
「働けよ‼」
みんなが笑う、その少し外側で。
黒猫だけが、まだ、あの男の消えた空を、じっと見上げていた。
その沈黙には、誰も、気づかなかった。




