げんえき
その夜、農園の納屋を借りて、一行は身を寄せていた。
黒猫のククは、隅で丸くなっていた。いつもの「どうでもいい」という顔ではなく、ただ、静かに。あの男が去ってから、ひとことも、頭の中に響いてこない。
「クク......」キキが、そっと近づく。「だいじょうぶ、にゃ?」
『......なんでもない』
久しぶりの声は、平坦だった。平坦すぎた。キキは、それ以上、聞けなかった。
「あの男の分析を、しておく」
ランタンの明かりの下で、リラが静かに口を開いた。感情のない、そろばんみたいに正確な声で。
「彼は、ただの泥棒じゃない。あなたたち精霊の言う"主候補"の、なれの果て――変異体よ」
「なれの、果て?」まひるが眉を寄せる。
リラは、指を一本立てた。
「人間は、選ぶたびに、少しずつ、その"神"の側へ寄っていく。優しさの側か、壊す側か」
「なるかよ‼ 神に‼ 知らんが」太郎が叫んだ。
「なる。理論上は」リラは、まばたきもせず言った。「そして――振り切ると、戻れない」
今度は、太郎も、ツッコまなかった。
「あの男は、片側に振り切ってる。振り切って、固まってる。たぶん昔は、彼も、候補だった。何かの穴を見て、誰かを助けようとした側の」リラは、消えた空を見た。「今は、違う」
キキが、ふと、リラを見上げた。
「リラ......なんで、そんなに詳しいにゃ?」
リラの答えは、一拍、遅れた。
「知ってるだけよ。作られ方が、違うだけ」
「作られ方?」
「なんでもない」
* * *
翌朝。町の広場が、大騒ぎになっていた。
噴水の水がしゃぼん玉になって宙に浮かび、ベンチがぼいんぼいんと跳ねまわり、屋台のたこ焼きが、衛星みたいに人々の頭上を回っている。
その中心の街灯の上に、あの男――凛が、座っていた。にこにこと。
「おっはよー。あ、名乗ってなかったね。凛。気軽に呼んでよ。で、今日は、町ぜんぶの"セキュリティチェック"だよん」
凛は、指先の球体をくるりと回した。
「みんな、見て見ぬふり、上手だよねえ。あのおじさんの畑が三十年ぶんヤられても、誰も、動かなかった。市役所も、隣の畑も、キミたちも。"どうせ自分は関係ない"。その平和ボケが、いっちばん、罪だよん」
「許さないにゃ‼」キキが飛び出す。ぱしゃっ、と五枚。まひるが、ククの三択をばしっと叩く。
――が、また。奇跡は"軽く"なって浮かび、事象は跳ね返され、あさっての方へ転がった。
「見て」リラが、冷たく言った。「彼の球体は、何も生まない。浮かせて、跳ね返して、位置を変えるだけ。奪って、混ぜて、返すだけ。水一滴も、梨ひとつも、増えてない。彼にできるのは、"撹乱"だけ」
その一言は、太郎の耳の奥に、なぜか、小さく引っかかった。
――何も、生まない。
* * *
「よお、先輩」
宙に浮いた凛が、納屋の壁で寝ているヒロユを見下ろした。
「まだ、寝てんの」
ヒロユが、うっすら目を開けた。
「お前は、まだ起きてんの」あくび。「......元気だなあ」
「起きてなきゃ、誰も、気づかないでしょ」凛の笑顔が、ほんの一瞬、奥で温度をなくした。「......誰も、気づいて、くれなかったんだから」
まばたきの間に、それは消えた。
ヒロユは、寝転がったまま、めんどくさそうに言った。
「......気づかせて、どうすんの。梨、増えた?」
「増えなくていいの。忘れなきゃ、それで」
「はいはい」ヒロユは、ごろりと寝返りを打って、背を向けた。「じゃ、勝手にやってて。おれ、寝る」
同じ穴を、見た二人だった。片方は、諦めて寝た。片方は、諦めさせるために、起き続けている。
まひるが、その背中を、きっと睨んだ。
「どっちも、最低だ」
* * *
凛が、ふわりと立ち上がった。浮かんだ町の道具を、ぜんぶ、その場に、ばしゃんと落として。
「じゃ、今日は、ここまで。明日は、いよいよ、本番」
凛は、丘の上の、あの梨農園を指さした。
「あのおじさんの、最後の収穫。ぜんぶ、ぼくが"チェック"してあげる。三十年の集大成、きれいに、跡形もなく、ね」にっこり。「――みんなが、また、見て見ぬふりするか。見物だよん」
そして――言い終わるより先に、もう、そこにいなかった。
残された広場で、まひるは拳を握っていた。おじさんの、「もう、ええんや」という泣き笑いの顔が、頭から離れなかった。
太郎は、さっきのリラの言葉を、まだ噛んでいた。
「あいつの力じゃ、何も生まれない。ってことは、逆に......何かを"生む"側が、来たら」
その先は、言葉にならなかった。納屋の隅で、ランタンの芯が、ぱち、と小さく鳴った。




