なし
丘の上の梨農園は、夕暮れの中で、しんとしていた。
たわわに実った梨の木が、何列も並んでいる。けれど、いくつかの棚には、ぼろぼろに破れた防鳥ネットが、力なく垂れ下がっていた。
その木の下に、麦わら帽子のおじさんが一人、しゃがみ込んで、泣いていた。
「おじさん?」
まひるが、真っ先に駆け寄った。
おじさんは、洟をすすりながら、途切れ途切れに話した。毎晩、梨が根こそぎ消える。ひと晩で、棚ひとつぶんが、まるごと。警察に言えば「イタチかカラスでしょう」。市役所に言えば「防犯カメラは、来年度の予算で検討を」。
「......もう、ええんや」おじさんは、地面を見たまま、笑った。泣きながら、笑った。「今年で、やめる。梨なんぞ、どうせ、誰も守っちゃくれん。三十年、やってきたけどな。もう、ええ」
まひるが、ぐっと唇を噛んだ。太郎は、かける言葉が見つからなかった。
『におうな』
ずっと黙っていたククが、言った。
「歪みにゃ」キキの白いひげが、ぴりぴり震える。「濃いにゃ。それと、もう一つ。なんか、"軽い"においもするにゃ」
その時だった。
ぽん。
木のてっぺんで、梨がひとつ、枝から、ふわりと離れた。落ちるのではなく――浮いた。
ゆっくり、音もなく、暮れかけた空へ。
ぽん。ぽん。ぽぽん。
つられるように、あちこちの梨が枝を離れ、いっせいに宙へ昇りはじめた。かと思えば、地面に落ちた梨が、今度はゴムまりみたいに、ぼいん、ぼいん、と甲高く跳ねて、畑じゅうを転がりまわる。
「梨が......浮いてる」
「跳ねてるにゃ‼」
浮かぶ梨と、跳ねる梨。夕暮れの農園は、一瞬で、静かで奇妙な、怪盗劇の舞台になった。
そして、破れたネットの支柱のてっぺんに、いつのまにか、人影が座っていた。
若い男だった。指先で、小さな球体をくるくると回している。その周りを、梨がいくつも、衛星みたいにぷかぷか漂っていた。
「やっほー」男は、にこっと笑った。「見物客? チケット、持ってる?」
「お前......」まひるが立ち上がる。「おじさんの梨を‼」
「盗んでる? やだなあ」男は、心外そうに片手をひらひらさせた。「これは、セキュリティチェックだよん。こんなに簡単に持っていける畑を、何年も、な〜んの対策もせず放っておく。それって、平和ボケでしょ。ぼくは、ちょっと、戒めてあげてるだけ」
一瞬だけ、男の笑顔の奥が、すっと温度をなくした。
――誰も、守っちゃくれん。
さっきのおじさんの言葉と、同じ色をした、何かが。
だが、それは、まばたきの間に消えた。
「許さないにゃ‼」
キキが、飛び出した。ぱしゃっ、と目の前の空気に五枚の像を焼きつける――男の足場の支柱、割れた梨、傾いた夕日、絡まったネット、そして「落ちろ」の象徴。象徴が組み上がり、支柱が、みしり、と傾く。
「まひる‼」
同時に、ククが三枚のカードを宙に展開した。まひるが、迷わず一枚をばしっと叩く。
――のに。
男が、くるりと球体を回した。
キキの奇跡は、ふわっと"軽く"なって、しゃぼん玉のように浮かび上がり、ぽん、と虚しく弾けた。まひるの選んだ一枚が起こしかけた事象は、ぼいん、と跳ね返され、あさっての方向へ転がっていった。
「あー」男は、退屈そうに頬をかいた。「キミたち、そういう手品ね。懐かしいなあ。効かないよん。ぼくの球体、"重さ"と"跳ね"を書き換えるだけだから。奇跡だろうが何だろうが、ぜんぶ、浮かせるか、跳ねさせて返すの」
キキも、ククも、言葉を失った。ひとつも、届かなかった。格が、違った。
男は、ふわりと支柱から降り、漂う梨をひとつ、手のひらに乗せた。帰り支度だ。
そして――ふと、動きを止めた。
くん、と鼻を鳴らし、目を細めて、こちらの一点を見る。
黒猫を。
「ん?」男の口の端が、ゆっくりと吊り上がった。「あれ。キミ。......そのにおい」
くく、と、喉で笑う。
「......まだ、神様ごっこ、続けてんだ」
その瞬間だった。
いつも冷たく、何を見ても動じなかった黒猫の――ククのしっぽが、ぴたりと止まった。
テレパシーの声は、来なかった。皮肉も、分析も、何も。
「クク?」太郎が、思わず呼んだ。「おい、クク。どうした」
答えは、なかった。
男は、満足そうに、漂う梨とともにふわりと宙へ浮かんだ。
「じゃ、また明日ね。セキュリティは、大事だよん」
浮かぶ梨の群れを引き連れて、男は、暮れた空へしゃぼん玉みたいに消えていった。
あとには、泣きやんだおじさんの呆然とした顔と、悔しさに拳を握るまひると、ざわつく太郎と――そして、石みたいに動かない一匹の黒猫だけが、残された。
その少し後ろで。
電柱にもたれて最初から最後まで寝ていたヒロユが、うっすら目を開けて、めんどくさそうにひとりごちた。
「......ああ。あいつ、か」あくび。「......厄介なのが、掘り起こされたな。ふぁぁ」
「知ってんのかよ‼ 起きてたなら手伝えよ」
ヒロユは、答えず、また寝た。
その隣で、ずっと無言だったリラだけが、消えた男の去った空を、静かに、機械のように正確な目で見つめていた。




