からす
博物館の、いちばん奥。ガラスケースの中に、古い石の棺が、ひとつ。
説明プレートには、そっけなく「西洋 年代不詳 用途不明」とだけ書いてある。
その棺の中で、一羽の――いや、一柱の精霊が、もう何百年も、ふて寝していた。
なまけものの、カラスの精霊である。
こいつには、名前がない。とっくの昔に、どこかで落とした。落とした場所も、もう思い出せない。覚えているのは、自分がずいぶん昔に「世界を救う修行」とやらのために地上に降りてきた、ドジな精霊の――それも、いちばん最初の一柱だった、ということくらいだ。
降りた先は、中世ヨーロッパ。任務は、経済問題の解決だった。
人間たちが、金で揉め、金で飢え、金で殺し合う。それを、なんとかしろ、と。カラスは、この国の紳士が着る黒い上下の姿をとって、しばらく真面目に考えた。
三日で、飽きた。
「経済って、要するに、金が足りんのだろう」
そう結論づけたカラスは、めんどくさくなって、その辺の葉っぱを拾い、片っ端から金貨に変えて、刷りまくった。
街に、金貨がじゃぶじゃぶ溢れた。物価が爆発した。パン一個が、樽いっぱいの金貨になった。
「......あれ?」
経済は、直るどころか、木っ端みじんに吹き飛んだ。そしてカラスは、偽金づくりの大罪人として、衛兵に追われる羽目になった。
カラスは、逃げた。街はずれの、誰も住んでいない古い洋館に逃げ込んで、そこで、ひと眠りすることにした。「ほとぼりが冷めるまで」と。
問題は、その「ひと眠り」が、深すぎたことだ。
寝ているあいだに、誰かがカラスを「死体」と勘違いして、ご丁寧に石の棺へ納めた。棺は、教会の地下へ。地下から、蔵へ。蔵から、競売へ。競売から、海を越えて――極東の島国の、博物館へ。
目が覚めたら、ガラスケースの中だった。数百年が、経っていた。
昼になると、人の子が、額をガラスにくっつけて覗いてくる。
「こわ〜い」
「ミイラじゃん。ウケる」
かつて、村ひとつが夜通し逃げまどった相手が、今や「ウケる」である。
カラスは、どうでもよかった。念のために言っておくが、本当に、どうでもよかった。
ただ、ひとつだけ。
棺に入る前にはぐれた――あの、生意気な主の少女と。もう一度も会えないまま数百年が経ってしまったことだけが、羽の奥の、いちばん奥で、ちりちりと、焦げ付いていた。
* * *
その夜も、カラスはふて寝していた。
異変は、視線だった。
ガラスの向こうに、少女が一人、立っている。この国の、制服姿の少女。何日か前から、毎晩来ている。
妙な子だった。人間というのは、そこにいるだけで、退屈だの、腹が減っただの、感情がだだ漏れになるものだ。なのに、この少女からは、何も漏れてこない。ぬるりと静かで、底が知れない。
そして――こちらを、見ている。ガラスも、棺も、石も、まるで無いみたいに、まっすぐに。ぜんぶを知っている者の、目だった。
三日目の夜。少女は、ガラスケースに、そっと手をついた。
「......やっと、見つけた」
声は、静かだった。
「ずいぶん探したのよ。何百年、寝てるの」
カラスの、閉じていた目が、うっすら開いた。
その声を、羽の奥の、いちばん奥が、覚えていた。
少女は、まっすぐにカラスを見て、命じるように言った。
「王の名のもとに、命じるわ。――思い出しなさい。あなたの、主を」
カラスは、しばらく黙って。それから、心底めんどくさそうに、口を開いた。
「......リラ、か」
「そう」
「なんで、そんなちんちくりんになっている」
「転生したの。文句ある?」
「大ありだ。数百年ぶりに会った主が、ランドセルを卒業したばかりの顔をしている」
「中学生よ。失礼ね」
* * *
「起きなさい」リラは、ガラスをこつこつ叩いた。「仕事よ」
「断る」
即答だった。数百年生きていても、面倒事のにおいは、初手でわかる。
「この国に、あなたと同じ、修行中の精霊が二柱、降りてる」
「ほう」
「黒い猫と、白い猫。ドジで、なまけもので、寄り道ばっかりして、いまだに主も見つけてない」
カラスは、盛大にため息をついた。石の棺が、ミシ、と鳴る。
「後輩か。いちばん面倒なやつだ」
「あなたが、言う?」
「我が身を顧みぬのが、先輩というものだ」
「開き直らないで」
リラは、ガラスケースの鍵に手をかけた。
「その二柱、いま、町の"歪み"を追ってる。梨泥棒だか、なんだか」
「梨」
「盗まれ続けてるのに、誰も、大した手を打たない。防犯カメラ一台で済むのに、誰も、その一台を出さない。――あなたの、大好物でしょう。そういう、放っておかれた歪みって」
カラスは、答えなかった。
リラは、ちらりと横目で、カラスを見た。
「ねえ。あなた、昔、経済を直しに来て。めんどくさがって、葉っぱで金を刷りまくって、国をひとつ吹き飛ばした、って」
「............」
「その話、あの子たちにしたら。なんて、言うかしらね」
カラスは、ぐっ、と黙り込んだ。
数百年ぶりに、羽の奥のいちばん奥が、焦げ付くのとは別の理由で、ちりっと熱くなった。
「行けば、いいんだろう」
「素直でよろしい」
「ひとつ、言っておく」カラスは、のっそりと羽を広げた。「名前を、まだ拾っていないんだがな。数百年」
「歩きながら、拾いなさい」
ガラスケースの鍵が、かちり、と回った。
夜の博物館の奥で、数百年ぶりに、一羽の――いや、一柱の、世界一なまけものの精霊が、黒い羽を、大きく広げた。




