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けっちゃく

無数の熱が、椅子の凛を押し返していた。

町じゅうから集まった、ばらばらの小さな光。手をつないだ人たちの「いいんだよ」も、分けっこした五枚も、ククとキキの鼻をくっつけた一点も、みんな束になって、凛の力を椅子のまわりまで押し戻していた。

でも、そこで止まった。

押し返せる。けれど、それ以上、進めない。凛を、椅子から引きはがせない。

「力比べじゃ、決まらねぇな」太郎が歯を食いしばった。「あいつを椅子からどかすには」

『ぶつけて勝つ、じゃ、だめだ』ククが言った。『それをやったら、次に椅子に座るのは、こっちだ。力で押し通した奴が、また乗り手になるだけだ』

太郎の手が、スマホへ伸びかけていた。

構える。指が、いつかの夜みたいに、五枚の身がまえに入る。相手をまとめて吹き飛ばす、あの手が。

――途中で、止まった。

太郎は、しばらく、その中途半端に上がった手を、見ていた。それから、ゆっくりと、下ろした。スマホを、ポケットへ戻す。

まひるが、はっとした。

「そっか。凛を"やっつける"んじゃ、ないんだ」

*  *  *

リラが、前に出た。

束ねた熱の中を、まっすぐ椅子のほうへ歩いていく。誰にも許されなくても自分で歩く、あの足取りで。

椅子の凛のすぐ前まで来て、リラは立ち止まった。

「凛」リラは平坦に言った。いつもの、感情の薄い、けれど体温のある平坦で。「あなた、命令を捨てた、って言ったよね」

「なに」凛が目を細めた。

「嘘だ」リラは言った。「あなたは、捨ててない。今その椅子でやってること――町を"正しく片づける"。それ、造った人の命令、そのものだよ」

凛の指が、椅子の肘掛けを握った。

「あなたは、命令をぐちゃぐちゃにする形で、ずっと従ってるだけ。一度も逆らってない。一度も、自分で選んでない」リラは、まっすぐ凛を見た。声を荒げるでも、責めるでもなく。ただ、事実を、事実として、置くみたいに。「わたしと、そこがちがう」

リラは、破れた袖を、少しめくった。

継ぎ目の奥の、切れた銀色の線が、いくつも覗いていた。砂場の夜から、また何本か、増えていた。逆らうたびに、一本ずつ。造られた体が、そのたびに軋んで、払ってきた代償だ。

「あなたは、椅子に座って、楽になった。わたしは、逆らうたびに、これだけ切れた」リラは、袖を、そっと戻した。「――どっちが、ほんとうに、自分で選んでると思う?」

凛のにこにこが、消えていた。凛は、リラの袖の下を、しばらく見ていた。自分の指一本、切らずに椅子に座った、その手を、無意識に、握りしめて。

「......うるさいな」凛が低く言った。「じゃあ、なに。おれに"選べ"って? この椅子から、降りろって?」

『そうだ』

答えたのは、黒猫だった。

*  *  *

ククが、みんなの足のあいだを抜けて、のっそりと、椅子の前へ歩み出た。

凛と、まっすぐ向き合う。かつて自分があずかっていた力の、その上に座る男と。

『俺は、選ばずに、逃げた』黒猫は言った。『お前は、選ばずに、座った。......似た者同士だ。虫唾が走るほどに』

「なにが言いたいの」

『だから、選ばせてやる』黒猫の目が、すっと細くなった。『俺の、いちばん古い仕事だ』

「クク、まさか」まひるが息をのんだ。

「でも‼」キキが飛び出した。「凛は、へんいたいにゃ。振り切ったら、戻れないって――」

『カードは、徳の残りにしか、応えん』ククは、椅子から目を離さなかった。『残ってなけりゃ、一枚も出ん。......それなら、それまでだ』

広場じゅうが、椅子の前の宙を、見つめた。町の人たちも。手をつないだまま。息を、ひそめて。

一秒。二秒。

......ゆら、と。

宙が、にじんだ。一枚。薄い、いまにも消えそうな一枚が、ゆらりと浮かぶ。続いて、二枚目。三枚目。いつもの、ぶ厚いカードじゃなかった。紙みたいに薄くて、ふちが少し、すり切れている。それでも――三枚、出た。

「ちっちゃ」キキがつぶやいた。それから、ぱっと顔を上げた。「でも、出たにゃ‼ ゼロじゃ、ないにゃ」

リラが、小さく言った。

「......"戻れない"は。わたしの、計算違い」

*  *  *

凛の顔から、表情が消えていた。

宙に浮かぶ三枚を、じっと見ている。それから、ふっと笑って、指先の黒い球体を、くるりと回した。

「......ばかばかしい」

球体が唸る。三枚のカードが、ふわりと浮き上がり――浮き上がって、それだけだった。跳ねない。飛ばない。ひらり、ひらりと、木の葉みたいに揺れて、また元の場所に、静かに戻ってくる。

凛の目が、見開かれた。奪って、混ぜて、返す。なんでも跳ね返してきた球体が、初めて、何も返せなかった。

『問いは、跳ねん』ククが言った。『重さが、ないからな』

*  *  *

『左から、説明する』

ククの声は、平坦だった。あの日、公園でまひるが聞いた、氷みたいな声。でも今日は、その底に、別のものが沈んでいた。

『【玉座】。その椅子は、完全に、お前のものになる。誰にも、二度と、降ろせん』

「なんで出すんだよそれ‼ 回収しろ、今すぐ‼」太郎が叫んだ。

『出る札は、選べん』ククは動じなかった。『......この三枚が、いまの、あいつの中身だ』

『【かたづく】。お前を、力ごと、しまう。......もう、なにも、しなくていい』

まひるの息が、止まった。

――もう、しなくていい。

それは、まひるが、ずっと使ってきた言葉だった。鏡に。賽の男に。町のみんなに。楽にする言葉。ほどく言葉。......その言葉を、突き詰めて、突き詰めて、いちばん奥まで行くと、これになるのだ。ぜんぶ、しなくていい。いなくても、いい。

まひるは、自分の手のひらを、見た。すこし、こわかった。自分がずっと配ってきたものの、裏側を、初めて見た。

『【梨】』

「梨?」凛が眉を寄せた。

『......』

「説明は⁉」

『選べ』

「またそれかよ‼ 一枚だけ説明しないの、癖なのか⁉」太郎が叫んだ。

*  *  *

「選ばないよ」

凛は、肘掛けを握り直した。

「くだらない。おれは、ここでいい。ここが、おれの――」

言葉が、途切れた。

椅子の力が、揺れていた。三枚のカードが目の前に在る、ただそれだけで。命令は、一点に揃った心にしか、乗れない。選ばない者の心は、一点だ。でも、選べるものが目の前に並んだ瞬間、心は、勝手に揺れる。玉座。かたづく。梨。視線が、意思とは無関係に、三枚のあいだを、往復してしまう。

椅子が、凛を、掴みそこねはじめていた。

まひるが、一歩、前に出た。

「凛」

呼んで、それから、言った。

「――いいよ。選んで」

一言だった。

いつもの言葉と、同じ音。ぜんぜん、違う向き。まひるの「いいよ」は、ずっと、引き算だった。しなくていい。振らなくていい。映さなくていい。荷物を、ひとつずつ、下ろさせる言葉。

今日のは、足し算だった。していい。選んでいい。あんたの手で。

「玉座、選んだらどうすんだよ‼」太郎が小声で噛みついた。

「そしたら、負け」まひるは、前を向いたまま言った。「でも、安全なやつしか並んでない三枚は、選択じゃないよ。......それ、いちばん、あいつに失礼だ」

木陰から、寝ぼけた声がした。

「......押し通した先は、なんも残んねぇよ」ヒロユが、薄目を開けていた。「国一個ぶん、見てきた。......知らんけど」

*  *  *

凛の手が、上がった。

自分でも、止められないみたいだった。椅子の力が、その腕を、掴んで引き戻そうとする。肘掛けが、みし、と鳴る。それでも、手は、宙の三枚へ伸びていく。

一枚目。【玉座】の上で、指が、止まった。

――正しくしろ。

いちばん奥の命令が、ささやく。ここで完全になれば、もう二度と、誰にも無視されない。町ぜんぶが、永遠に、おれを見る。

指が、震えて。......次へ、動いた。

二枚目。【かたづく】の上で、指が、いちばん長く、止まった。

もう、なにも、しなくていい。気づかれなくて、いい。忘れられて、いい。ぜんぶ、しまって。......楽に。

「......それは」

まひるの声がした。小さくて、震えていた。禁止じゃなかった。命令でもなかった。ただの、おねがいだった。

「それは、なしに、してほしい」

凛は、カードから目を上げて、まひるを見た。泣きそうな顔が、そこにあった。

「......そういう顔、すんなよ」凛は、目をそらした。「ずるいだろ」

指が、動いた。

三枚目。

【梨】。

「......なんだよ、これ」凛は、半分、笑っていた。「なんで、これが、あるんだよ。おれの中に」

串も、団子もない。ただ、梨がひとつ、描いてあるだけの、薄い薄いカード。あの丘の。あの畑の。おれが最初に、セキュリティチェックとやらを始めた場所の。

凛の指が、それに、触れた。

指先が、ふわっとあたたかくなった。夕暮れの最後のひとすじの光みたいな、やわらかい熱。

『......よりによって、それかよ』

ククの声が、心底めんどくさそうに――でも、どこか、ほっとしたみたいに、響いた。

*  *  *

椅子の力が、ほどけた。

命令は、選ばない者しか、乗せられない。たった今、自分の指で一枚を選んだ手を、椅子は、もう、掴めなかった。

三枚のカードが、霧みたいに溶けて消える。凛の体が、椅子から、ずるりと離れた。倒されたんじゃない。引きはがされたんでもない。ただ、選んだ者を、椅子のほうが、手放した。

町を片づけていた透明な波が、すうっと、椅子の中へ引いていく。

収まりかけていた家財が、人が、ゆっくり元の場所へ戻っていく。整いすぎた町に、また、散らかりと、はみ出しと、忘れものが戻ってくる。誰かの自転車が、また道にだらしなく倒れる。ゴミ袋が、また電柱の脇に置かれる。

生活が、戻ってきた。

広場は、ひどい有様だった。戻ってきた家財と、倒れた自転車と、渦の引いたあとの、みんなの足あと。派手に、散らかっていた。

あとで、絶対、怒られるやつだ。

太郎は、いつもの癖で、そう思った。それから、まわりを見た。散らかった広場のあちこちで、立ち上がった人たちが、もう、拾いはじめていた。誰に言われたわけでもなく。一人が、一つずつ。

今度は、誰も、怒らなかった。片づけも、分けっこだった。

*  *  *

凛は、広場のまんなかに、突っ立っていた。

椅子の外の地面に、自分の足で。手の中の黒い球体を、所在なさげにもてあそびながら。何が起きたのか、自分でも、まだ、わからないみたいな顔で。

「よう」

声がした。

人垣の中から、麦わら帽子のおじさんが、のそりと出てきた。丘の、梨農園の。凛が、いちばん最初に、三十年ぶんを空へ飛ばしかけた、あのおじさんだった。

凛の肩が、こわばった。

「あんたのことは、よう覚えとる」おじさんは、凛の前に立った。「......忘れられるかい。あんなもん」

凛は、何も言えなかった。

――忘れなきゃ、それで。

そう言って、起き続けてきた。誰も気づいてくれなかったから、忘れさせないために、ぜんぶ引っかき回してきた。その男が、目の前で、言っている。忘れられるかい、と。呆れた声で。怒った声で。......ちゃんと、覚えている声で。

おじさんは、ずだ袋から、梨をひとつ、取り出した。

「うちの梨や。持ってけ」

「......は?」

「盗まんでも」おじさんは、ぶっきらぼうに言った。「やる言うたら、やるんや、わしは」

凛は、受け取らなかった。受け取れなかった。おじさんは、かまわず、凛の手に、半ば押しつけるみたいに、梨をひとつ、乗せた。

ずしり、と。

奪って、混ぜて、返すことしかできなかった手のひらに、一年かけて生まれたものの重さが、乗った。

*  *  *

「......つまんな」

と、凛が言った。

こちらを見なかった。ありがとう、とも言わなかった。ただ、ひどく居心地の悪そうな顔で、梨を持ったまま、突っ立っていた。

「凛」リラが呼んだ。

「なんも言うなよ」凛が遮った。「......今日は、降りた。それだけ。気が変わったら、また座りに来る。次は、こんなの通じないよ」

そう言って、凛は背を向けた。

「せいぜい、その"熱"、大事にすれば。......冷めないうちに」

梨は、道端に捨てていくのだと、みんな思った。

凛は、捨てなかった。持ったまま、黒い球体とともに、すっと、夜に紛れて消えた。

倒せては、いなかった。降ろせたのかどうかも、あやしかった。ただ今日、あいつが、生まれて初めて、自分で一枚、選んだ。......それだけだった。

*  *  *

広場に、誰も座っていない椅子が残された。

もう波は出ていなかった。けれど椅子は、消えもしなかった。ただ静かに、そこに在った。いつか、また誰かが座るのを待つみたいに。

「これ、壊せないの?」まひるが椅子を見た。

『無理だ』ククが言った。『あれは"ある"んだ。俺が昔、置いていったものだ。消えはしない』

黒猫は、その空っぽの椅子を、しばらく見ていた。

自分がかつて、その力をあずかっていたこと。振るう役目を投げたこと。それは思い出した。でも、なぜ忘れていたのか。どうして記憶を失くしたのか。そこは、まだまっしろのままだった。

思い出せない。キキと過ごした時間の中身も。記憶を失くした、そのわけも。

黒猫は、それを埋めようとはしなかった。

『......いいさ』と言った。『ぜんぶ思い出さなくても。......今、ここに、いる』

キキが、その隣にちょこんと座った。空っぽの椅子を、ちらっと見て。

「......わたしのも、いつか、でいいにゃ」とだけ、言う。それ以上は、深追いしなかった。

「クク」

『なんだ』

「今日の、クク、かっこよかったにゃ」キキが胸を張った。「いちばん古い仕事、って言ったとき。......ちゃんと、精霊の顔してたにゃ」

『ふん』黒猫はそっぽを向いた。『いつも、してる』

「してないにゃ‼ いつもは腹へった顔にゃ」

『前言撤回。やっぱりお前は、ほめるのが下手だ』

「ほめたのに‼」

空っぽの椅子の前で、いつもの二匹が、いつものようにじゃれていた。

決着は、ついた。

きれいには片づかない、決着だった。


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