きょうのところは
それから、しばらく、町は平和だった。
平和、というか。いつものしょうもない感じに戻った。
商店街の福引は、またふつうの福引になった。銭湯の煙突は、もう煙を上げない。潰れたスーパーのレジは、静かに閉店セールの貼り紙をめくれさせている。
町は、直りきってはいなかった。相変わらずみんな、ちょっとめんどくさがりで。困っている誰かを、半分、見て見ぬふりして。小金と手間で解けることを、放っておく。
でも、ときどき。あの日、自分で立ち上がった誰かが、隣の誰かに「いいんだよ」と言う。ほんの少しだけ。町の無関心が、ほんの少しだけ、薄くなった。
それだけの変化だった。
* * *
賽の目屋の男は、あの夜言っていたとおり、小さな定食屋をはじめた。
「明日のメニューは、明日にならないとわからない」という、いいかげんな店だ。それでも、昼どきには白い湯気が暖簾の下からこぼれて、なぜか居心地がいいと評判らしかった。
賽は、捨てなかった。今も、エプロンのポケットに入っている。もう、明日を当てるのには使わない。ただ、店が暇なとき、ころ、と一度だけ転がして、出た目のぶんだけ、その日のおすすめを増やすのだそうだ。振らないでいられるようになった手で、たまに、遊びで。
ヒロユは、相変わらず寝ていた。
リラは、少し変わった。まばたきがうまくなった。ときどき、下手なタイミングで笑うようになった。まひると二人でいるところを、よく見かけた。
一度だけ、ヒロユが、うたた寝の途中で薄目を開けて、リラに言いかけたことがあった。
「......なあ。お前、やっぱり、あれ――」
「いつか、聞く」リラが、静かに遮った。「今じゃ、なくていい」
「......ふぁい」
ヒロユは、また寝た。リラは、下手なまばたきを、ひとつだけした。
かごの、あの男性は。いつのまにか、町からいなくなっていた。ただ、たまに道の端に、こわれた傘や、片方だけの手袋が、きれいに並べて置かれていることがあった。誰かがそれを、大事そうに片づけているのだ。......どこかで、まだ。
凛は、あれきり来ない。でも、ときどき夜の道で、ころん、と硬いものが転がる音がする。姿は見えない。......ただ、まだそこにいる、という気配だけが残っていた。
椅子は、まだ広場にあった。誰も座っていない。誰も片づけない。ただ静かにそこに在って、いつか、また誰かが座る日を待っている。
その椅子の脚もとに、いつのまにか、梨の芯がひとつ、転がっていた。きれいに、かじってあった。誰の食べ残しかは、誰も知らない。......誰も、片づけなかった。
* * *
まひるの部屋で、太郎はまた、あの黒猫と白猫を見ていた。
窓辺で丸くなったクク。そのすぐ隣で、同じように丸くなったキキ。いつもより半歩、近い。いつだったか、ククがべったり張りついて離れなかった日があった。あの日から、その距離は少しずつ縮まって、今、ここにあった。
ククは、まだ昔のことを思い出せない。キキとどんな時間を過ごしたのか。なぜ記憶を失くしたのか。ぜんぶ、まっしろのまま。
でも、今、隣にキキがいる。それでじゅうぶんだった。
キキが、ふと目を覚ました。
窓の外の、どこか遠くを見た。なにか思い出しかけたみたいに。自分にも、ククみたいな"まっしろ"があるような。ずっと昔、自分もどこかにいたような――
キキは、ぶるっと頭を振った。
そして、あくびをひとつして、またククの隣に丸くなった。
今は、それでいい。
太郎は、なんとなく、スマホのカメラを開いた。
窓辺の二匹。パシャ。頬杖のまひる。パシャ。畳に転がったままの、まひるの靴下。パシャ。窓の外の、夕方の月。パシャ。
四枚。
画面の下に、小さく数字が出る。4/5。
五枚目に指をかけて――太郎は、ふと、賽をポケットにしまった男の手つきを思い出した。振らないで、持っておく。ああいうのも、ありらしい。
太郎は、スマホを伏せた。
五枚目は、撮らない。何が起きるかわからないまま、一枚ぶん、あけておく。
明日は、明日、来てからでいい。
* * *
「なあ」太郎がまひるに言った。「けっきょく、あの椅子、どうすんだ。ずっと、あのままか」
「うーん」まひるは頬杖をついた。「どうしようもないんじゃない? クク、消せないって言ってたし」
「世界、直りきってねぇじゃん」
「うん。直りきってない」まひるは笑った。「でも、ぜんぶ、いっぺんには直らないよ。......こういうのは」
窓辺で、ククが片目を開けた。
『当たり前だ』黒猫はめんどくさそうに言った。『世界なんて、直りきったら、俺たちの仕事がなくなる』
「出た。働きたくない黒猫の言いわけ」
『言いわけじゃない。思想だ』
「おんなじだにゃ‼」キキが割りこんだ。
そのとき、まひるのスマホが鳴った。
伝言だった。町のはずれの古い公園。誰も乗っていないブランコが、夜な夜な、ひとりでにこいでいる、という。
「歪みだにゃ‼」キキの目が輝いた。がばっと起き上がる。「まかせろにゃ。わたしが、あのブランコに――」
その尻尾を、黒猫が前足で踏んだ。
「にゃっ」
『......行くなら、一緒に行く』
キキが目をまるくして、それから、にっと笑った。
「ふうん。やっぱり、心配してるにゃ」
『してない。......腹が減っただけだ』
「でた‼ いつものやつにゃ」
太郎が噴き出した。まひるも立ち上がった。
夜の町に、また、しょうもない歪みが一つ。
それを片づけに、しょうもない四人と二匹が、でかけていく。
世界は、まだ直りきらない。
でも――今日のところは、それでいい。




