まちの
その朝、町が片づきはじめた。
まひるが目を覚ますと、部屋がやけにきれいだった。散らかっていたはずの机の上がまっさらで、読みかけの漫画も、充電ケーブルも、ゆうべ脱いだ靴下も、ない。どこかへ、きちんとしまわれていた。誰かに片づけられたみたいに。
窓の外を見て、まひるは息をのんだ。
町が、片づいていた。
自転車が、電柱が、看板が、公園のベンチが。ひとつ残らず整列して、あるべき場所に収まっていく。はみ出したもの、置きっぱなしのもの、忘れられたものが、順番にすうっと消えていく。角がそろい、列がそろい、隙間が埋まっていく。町がまるで模型みたいに整っていく。整いすぎて、生き物の気配が、どんどん薄くなっていく。
そして、人が。
近所のおじさんが、ゴミ袋を持ったまま、道の端に行儀よくしゃがみこんでいた。あの椅子の前の人たちみたいに。順番を待つみたいに。
誰も逃げていなかった。誰も悲鳴をあげていなかった。みんな、片づけられるのを待っていた。まるで、そのほうが楽だとでもいうように。
* * *
町の広場の、あの椅子に、凛が座っていた。
背もたれに手をかけて立っていた、あの余裕はもうなかった。深く腰かけて、目を閉じて。椅子と一つになったみたいに。
椅子のまわりから、透明な波みたいなものが、町じゅうへ広がっていた。水面に石を落としたときの輪みたいに、いく重にも、ゆっくりと。その波が通るたびに、町が片づいていく。
『凛が座った』ククが低く言った。『座る者のいなかった力に、意思が戻ったんだ。凛の、意思が』
「止められないの⁉」まひるが叫んだ。
『まっすぐには、無理だ』
そのときだった。波が、黒猫とキキの体を通り抜けた。
一瞬、二匹の体が光った。
体の内側を、あたたかいものが、すうっと通り抜けていく感覚があった。いつもの姿の奥から、別のなにかが透けた。ずっと高いところ――もう誰もいない、空っぽの高みから借りてきた、大きな光の名残みたいなもの。その光は、上へ、上へと、透けて伸びていた。二匹は、そこから来ていた。力をあずかって。
そして椅子の凛は、二匹とは逆の方向へ根を張っていた。この地面へ。この町の、人たちのほうへ。足の裏から、下へ、下へと、伸びていくもの。上から降りてきた光と、下から伸びてきた根。方向だけが、正反対だった。
ヒロユだけは、変だった。二匹と同じ、上から降りた光のなごり。その上に、数百年ぶんの根が、下へ、下へと絡みついていた。どっちでもあって、どっちでもなかった。
「ああ、そっか」まひるは、その光を見て、なんとなくわかってしまった。うまく言葉にはできなかったけれど。ククとキキがどこから来て、凛が、どこから来たのか。......ヒロユが、どれだけ長く、ここにいるのかも。
「上のやつらは、とっくにいないよ」椅子の凛が、目を閉じたまま言った。「残ったのは、力だけ。おれたち下の者と、力を置いてった上の者の、忘れ物。なら、拾った者が使えばいい。そうだろ?」
* * *
太郎が五枚を構えた。
「うるせぇ‼ 御託はいいんだよ」
五枚の写真が、椅子の凛へ向かう。人の選択に委ねる、太郎の熱。いちばん純度の高い、あの力。
けれど椅子の手前で、五枚は力を失った。あたたかかったはずのそれが、指の中で、すうっと冷えていく。ぱさりと、ただの紙になって地面に落ちた。
「効かないって、言ったろ」凛は目を開けなかった。「"選ばせる"力は、"選ぶ相手"がいて、はじめて効く。この町を見なよ。誰も選ぶ気なんかない。みんな、片づけられるのを待ってる。選ぶ気のない相手には、"選ばせる"は、なんにもできないんだ」
まひるが、近所のおじさんに駆け寄った。しゃがみこんだその肩に手を置く。
「――おじさん‼ 片づけられなくて、いいんだよ。立って‼」
おじさんは、うつろな目でまひるを見た。
「......いいんだよ、お嬢ちゃん」おじさんは力なく笑った。「もう、いいんだ。どうせおれなんか、いてもいなくても同じだ。きれいに片づけてもらったほうが、楽だ」
まひるの手が、はじかれた。肩に置いた手のひらが、行き場をなくして、宙で止まる。
はじめて、まひるの「いいんだよ」が、届かなかった。
いつもなら、するりと相手の中に落ちていくその言葉が、今日は、うつろな目の表面で、つるりと滑って、どこにも入っていかなかった。
* * *
「そんな」まひるが立ちすくんだ。
町が静かに片づいていく。人が次々と収まっていく。誰も抵抗しない。無関心が、いちばん大きな歪みになって、町をのみこんでいく。
そのときだった。
「――やだね」
声がした。片づけられかけた道の、その真ん中で。一人の男が立ち上がった。
あの、賽の目屋の男だった。手に、あの白い賽を握って。膝が笑っていた。それでも、立った。
「おれは、やだ」男は震える足で、それでも立っていた。「明日どうなるかなんて、わかんない。ずっとこわかった。......でも、この前、教わったんだ。"わかんなくて、いい"って。"みんな、そうやって生きてる"って」
男は、賽をぎゅっと握った。
「片づけられて、なんにも悩まなくなるのが楽? ......ちがう。それは、生きてないだけだ。おれは、こわいまま、生きるほうを選ぶ」
男は収まろうとしなかった。波が何度通り抜けても、ただ立っていた。何度でも、膝に力を入れ直して。
町のあちこちで、ぽつり、と一人。少し離れて、また一人。ぽつり、ぽつりと立ち上がる人がいた。パン屋の主人が。傘をなくした女の子が。扇風機を手放したあの男が。いつか、この変な子たちに「いいんだよ」と言ってもらった誰か。「どうぞ」と手放させてもらった誰か。一度、自分で選んだことのある人は、うつむいた顔を、また一つ、上げられた。
* * *
そして路地の暗がりから、あの静かな男性が歩み出てきた。
かごを提げていた。いつもの丁寧な手つきで。けれど今日は、その手が収めるのではなかった。
男性は、しゃがみこんだ町の人の肩にそっと手を添えた。壊れ物を扱うみたいに。そしてゆっくりと立たせた。収めるための手つきで、人を、片づけられる側からそっと戻していく。同じ丁寧さで、向きだけを、逆にして。
「あんた」太郎が目を丸くした。
その男性は太郎のほうを見なかった。ただ静かに、収まりかけた人を一人、また一人と起こしながら、小さく言った。
「わたしは、収めるのが仕事です」男性は言った。「でも。こんな片づけ方は、美しくない」
* * *
まひるが、立ち上がる人たちを見回した。
一人ずつ、ぽつり、ぽつりと。誰かに一度、選ばせてもらった人たちが、今、自分で立っている。
「そうか」まひるが呟いた。「一人ずつ、なんだ」
『ん?』ククが見上げる。
「凛は、一人でぜんぶ片づけようとしてる。一点に力を集めて」まひるは拳を握った。「なら、わたしたちは逆。一人ずつ、選んでもらう。ぜんぶ分けて、手渡して」
太郎が、地面に落ちたただの紙の五枚を拾い上げた。
「なるほどな。俺一人の熱じゃ、足りねぇ。なら、みんなの熱を集めりゃいい」
キキが、ぴょんと跳ねた。
「わけっこにゃ‼」キキが胸を張った。「おやつも力も、わけっこがいちばん、うまいにゃ」
「お前、絶対なんもわかってないだろ」
「わかってるにゃ‼ ......たぶんにゃ」
町はまだ片づきかけていた。椅子の凛は、まだ目を閉じていた。
でも、立ち上がる人が、一人ずつ増えていく。
反撃の、はじまりだった。




