からのいす
その朝、町の広場に、椅子があった。
誰かの忘れ物みたいに、バス停のそばの、なんでもない広場のまんなかに。木でできた古い椅子が一脚、ぽつんと置かれていた。背もたれのある、ふつうの椅子だ。座面のニスは剥げ、脚の一本に、古い擦り傷がある。どこの家の軒先にでもありそうな、なんの変哲もない椅子だった。
誰も座っていなかった。
なのに、その椅子のまわりだけ、空気がちがった。
朝の広場は、いつもどおりだった。バスを待つ人。犬を連れた人。新聞をめくる人。みんな、その椅子のことを、たいして気にしていない。ただ、通り道が、椅子のところだけ、みんな自然と、半歩ぶんずれていた。理由も考えずに。避けているというより、そこに道がない、みたいに。
そして、時々。
通りかかった人が、なんとなく椅子のほうへふらりと近づいていく。吸い寄せられるみたいに。そして椅子の手前で、すとん、としゃがみこむ。行儀よく、まるで順番を待つみたいに。しばらくして、ふっと我に返り、きょとんとした顔で立ち上がって、また歩いていく。何ごともなかったみたいに。何人も、何人も。
「また、"収まる"やつか」太郎が顔をしかめた。「でも、なんか、これ、いままでのと」
『違う』
ククの声が低かった。黒猫は、その椅子から目を離さなかった。背中の毛が、うっすら逆立っていた。
『これは歪みじゃない』黒猫は言った。『歪みが生まれてくる、大元のほうだ』
* * *
キキが、動かなくなっていた。
椅子を見ていた。逆立った毛のまま、じっと。
いつもの「収まりたい」とは違った。もっと深いところから引っぱられる感じだった。あの椅子は、キキにこう言っている気がした。――おかえり。そこは、おまえのいる場所だよ。
キキの足が、一歩、椅子のほうへ動いた。
自分の意思じゃなかった。
「――キキ‼」
太郎が抱き上げた。椅子のほうへ伸びようとするキキの小さな体を、ぐっと抱きとめる。
「にゃ......っ」キキが我に返った。「......いま、わたし。あの椅子に"座らなきゃ"って。なんで」
『座るな』
ククが、キキと椅子のあいだに体を入れた。あの、かごの夜と同じ姿勢で。低く身を伏せ、椅子との間に、自分の背中で線を引くみたいに。
『あそこは、お前の座る場所じゃない』黒猫の声は固かった。『......もう違う。ずっと昔に、違うって決めたはずだ。お前も、俺も』
キキがククを見た。
「......クク。わたしも、あそこに、いたの?」
黒猫は答えなかった。
その沈黙が、半分だけ答えていた。けれど、それ以上は開かなかった。黒猫はただ、キキと椅子のあいだに立ちつづけた。
* * *
「――ずいぶん、なつかしそうだね。二匹とも」
広場の椅子の背もたれに、凛が片手をかけて立っていた。いつのまに現れたのか、足音も、気配もなかった。
「いい椅子でしょ」凛は、それを愛おしそうに撫でた。剥げたニスの座面を、手のひらで、ゆっくりと。「ずっと空いてたんだ。主がいなくなって、振るう者が降りて。......誰も座らないまま」
黒猫のしっぽが、ぴくりと動いた。
「動き続ける力ってさ、かわいそうなんだよ」凛は笑った。「座る奴がいないから、なんにも考えないで、ただ片づけ続けるしかない。良いも悪いもなく。でも、もし、誰かがここに座ったら」
凛が、椅子の座面を、ぽん、と叩いた。乾いた、軽い音がした。それだけの、なんでもない音が、広場に、やけに響いた。
「その力に"意思"が戻る。座った奴の思うとおりに、動きだす」
「お前」太郎の声が掠れた。「まさか」
「うん。おれが座る」凛はあっさり言った。にこにこしていた。声を張るでも、凄むでもない。近所のことでも話すみたいな、軽さで。「みんなが見て見ぬふりしてる、この町を。おれがいちばん"正しく"片づけてあげる。ぜんぶ、きれいに。......だって、そのために造られたんだもん。おれも、リラも」
* * *
『させるか』ククが低く唸った。
「させないよ、なんて言える? 君たちに」凛は肩をすくめた。「この椅子を、どうにかできる? 太郎の写真も、まひるの許可も、この"大元"には効かないよ。だって、歪みを生んでる側なんだから」
誰も言い返せなかった。
いつもみたいに「どうぞ」で手放させて片づく相手じゃなかった。目の前にあるのは、しょうもない一個の未練じゃない。すべての未練を収めにくる、椅子だ。
「今日は、ここまで」凛が椅子から手を離した。「まだ、じゃない。でも、もうすぐ。おれがここに座る日がくる」
凛の姿が薄れていく。
「そのとき決めなよ。力で片づけるおれと、その気にさせて片づける君たちと。どっちが、この町を"直せる"のか」
消えた。
広場に、誰も座っていない椅子だけが残された。しゃがみこんでいた人たちが、ふっと我に返って、「あれ?」と立ち上がり、それぞれ歩いていく。
椅子は、まだそこにあった。朝の光の中で、ただの古椅子の顔をして。
まひるは、その椅子に、手のひらを向けかけた。町の人に、いつもするみたいに。
上げて――途中で、下ろした。
何も言わなかった。ただ、自分の手を、少しのあいだ見ていた。
* * *
「......帰ろう」まひるが言った。いつもみたいに、笑えなかった。
歩きだしても、みんな無言だった。あの椅子が、まだ背中にあった。振り返らなくても、そこにあるのが、わかった。
その重い空気のまんなかで、キキが言った。
「......クク」
『なんだ』
「わたし、あそこに座らなかった、にゃ」キキは、太郎の腕の中からククを見た。「ちゃんと太郎に抱きとめてもらったし、クク、間に入ってくれたし。......ひとりじゃ、なかったにゃ」
黒猫は、少し間をあけた。
『......当たり前だ』
「うれしいこと言うにゃ‼」
「言ってない」
「言ったにゃ‼ いま、めっちゃやさしい声だったにゃ」
『......気のせいだ』
太郎が、ちょっとだけ笑った。まひるも。
重い空気が、ほんの少し軽くなった。ほんの少しだけ。
椅子は、まだ広場にあったけれど。




