にせもの
その銭湯は、二年前につぶれていた。
「たから湯」の暖簾は、とっくに外されている。番台も、下足箱も、からっぽだ。木の札の落ちた下足箱が、口を開けたまま並んでいる。なのに夜になると、煙突から、もくもくと湯気が上がる。誰も焚いていないのに。
太郎たちがこじ開けた戸から中を覗くと、湯船に、たっぷりと湯が張られていた。ゆらゆらと湯気を立てて。タイルの壁に、湯気のしずくが伝って落ちる。誰も入らない熱い湯が、毎晩、わきつづけている。
「律儀な歪みだな」太郎が言った。「客、一人もいないのに」
『まだ、店をやってるつもりなんだ』ククが言った。ゆうべの坂の一件で、声がまだ少し硬い。それでも、いつもの調子に戻そうとしていた。『閉めたことを、受け入れてない。未練だ』
「じゃあ、ちゃんと閉めさせてあげればいいんだね」まひるが湯船のほうへ歩きかけた。「番台のおじいさんとか、いれば――」
その時だった。
「......めんどくせ」
壁にもたれて、ヒロユが半分寝たまま、片手をひらひらと振った。もたれた背中はずり落ちかけ、片方の足はだらしなく投げ出されている。目は、閉じたまま。
どこからともなく、一枚の紙が、湯気の中にふわりと現れた。
古びた貼り紙だった。かすれた字で、こう書いてある。
「――長らくのご愛顧、ありがとうございました。たから湯 主人」
それは、誰も書いていない紙だった。誰も貼っていない紙だった。ありもしない閉店のあいさつを、ヒロユが、あるものとしてそこに通しただけの、偽物だ。
なのに。
湯船の湯が、すうっと引いた。栓も抜いていないのに、水位だけが下がっていく。煙突の湯気が、ぷつりと止まった。銭湯は、その一枚の紙で、ようやく「閉めていいんだ」と納得したみたいに、静かになった。
一瞬で、片づいた。
* * *
「え」まひるが貼り紙を見た。「今の、なに」
「にせものにゃ」キキが鼻を鳴らした。「そんなあいさつ、誰もしてないにゃ。ヒロユが、でっちあげただけにゃ」
「でも、静かになったぞ」太郎が言う。「解決したんじゃ......」
『......してない』
ククだった。黒猫は、引いた湯船をじっと見ていた。
『まひるがやろうとしたのは、"閉めていいよ"って選ばせることだ。銭湯が、自分で納得して、店じまいする。それは、なにかが片づく』
黒猫は、ヒロユの偽の貼り紙を顎で示した。
『あいつのは、違う。"もう閉めた"って嘘を、本当ってことにして押し通しただけだ。銭湯は、納得してない。......ただ、嘘に黙らされただけだ』
湯船は、からっぽだった。乾いたタイルの底に、水の輪じみだけが残っている。けれどそのからっぽは、さっきまで湯をわかしていたときより、ずっと寒々しかった。湯気の消えた浴場は、しんと冷えて、天井から、ぽつ、と最後の水滴が一つ、落ちた。その音が、やけに大きく響いた。
何も、生まれていなかった。
* * *
「ヒロユ‼」まひるが壁のヒロユに詰め寄った。「なんで、そんなことするの‼ もうちょっとで、ちゃんと閉めさせてあげられたのに」
ヒロユは、半分閉じたまぶたの奥から、めんどくさそうにまひるを見た。
「その"ちゃんと"が、時間かかんだろ」あくび。「おれのは、一発。楽じゃん」
「楽とか、そういう問題じゃ――」
「知ってるよ」
ヒロユの声が、めずらしく、ほんの少しだけ低くなった。
「押し通すのが、いちばん楽で、いちばん速い。......で、いちばんあとで、ろくなことにならない」
まひるが、口をつぐんだ。
「昔さ」ヒロユは、また目を閉じた。「一発で片づけようとして、でっかいの、通したことがあんの。国、ひとつぶん」
「......くに」
「うん。吹き飛んだ。まるっと」ヒロユの声は、寝言みたいに起伏がなかった。「にせものは、通る。通るんだよ、案外。......でも、通したあとに、なんにも残んねぇの。ぜんぶ、後始末。だから、おれは寝てる。動かないのが、いちばんまし。......知らんけど」
「知らんけど、じゃないよ」まひるは小さく言った。でも、さっきより、怒ってはいなかった。
* * *
帰り際。太郎が、ふと路地の向こうに気づいた。
あの静かな男性が、立っていた。地味なカーディガンに、かごを提げて。街灯と街灯のちょうど切れ目、暗がりの底に、輪郭だけが浮いている。こちらを見ているのでもないみたいだった。ただ、静かになった銭湯の戸口を、遠くから眺めていた。
そして、小さくうなずいた。何かに満足したみたいに。
ヒロユが偽物で押し通した、あの寒々しいからっぽを。まるで、それでいい、とでも言うように。
太郎がまばたきをした、次の瞬間には。もう、そこには誰もいなかった。暗がりだけが、もとどおり、ただの暗がりに戻っていた。
「今の」太郎がつぶやく。
『放っとけ』ククが短く言った。けれどその目は、男性の消えた路地から、しばらく離れなかった。しっぽの先が、一度だけ、ぴくりと動いた。
* * *
帰り道。
「なあ」太郎が歩きながら言った。「今日ので、なんか、わかった気がする」
「なにが」まひる。
「ヒロユのやり方と、俺らのやり方。どっちも、歪みは黙らせられる。でも片方は、押し通して黙らせる。もう片方は、その気にさせて片づける」太郎は頭をかいた。「うまく言えねぇけど。たぶん、そこが、この先ぜんぶの、分かれ道なんだよな」
『めずらしく、いいこと言うな』ククが言った。
「うるさい」
キキが、ぴょん、と太郎の肩に飛び乗った。
「難しい話は、わかんないにゃ」キキは胸を張った。「でも、わたしは、その気にさせるほうが好きにゃ。だって、そのほうが、」
キキは、少し考えて。
「......あったかいにゃ」
太郎は、ちょっと驚いて、それから笑った。
「お前、たまに核心つくのな」
「たまにじゃないにゃ‼ いつもにゃ」
「いつもは、うるさいだけだろ」
夜の道で、ヒロユは、いつのまにか歩きながら、また寝ていた。歩きながら寝るという、器用なのか無精なのか分からない格好で。
にせものひとつ、通すこともなく。ただめんどくさそうに、みんなの後ろをついてきた。




