ふるすがた
その角で、ククが動かなくなった。
いつもの帰り道だった。パン屋の角を曲がって、坂を下る。何百回も通った道だ。夕日が、坂の下の家並みを、赤くふちどっている。なのに黒猫は、その途中でぴたりと足を止めて、動かなくなった。四本の足が、地面に縫いつけられたみたいに。
「クク?」まひるが振り返る。「どうしたの」
答えない。
黒猫は、見慣れた住宅街の、夕暮れの坂を見ていた。けれど、その目に映っているのは、たぶん、そこじゃなかった。瞳が、坂の向こうの、もっと遠くへ、焦点を送っている。
坂の景色に、別の景色がうっすら重なっていた。ここではない、どこか。白くて、広くて、静かな、見覚えのある場所。二重写しに、滲んで。夕日の赤の上に、その白だけが、ちがう温度で浮いていた。
『…………』
黒猫の喉から、声は、出てこなかった。
* * *
「――やっと、その顔になったね」
坂の下に、凛が立っていた。
昨日みたいに街灯の上じゃなかった。地面にちゃんと足をつけて。にこにこも、していなかった。ただ静かに、黒猫を見上げていた。
「ごあいさつは、昨日ぶんで終わり」凛は、黒い球体を手の中でひとつ握りこんだ。「今日から、本番。思い出す時間だよ、黒いの」
「クク‼」太郎が黒猫の前に出た。「おい、しっかりしろ。あいつを見るな」
凛は、太郎を相手にしなかった。戦う構えも、なかった。
ただ、指先の球体を、ひとつ、くるりと回した。
* * *
坂の途中の、倒れた自転車が、ふわりと起き上がった。
音もなく。まっすぐに。ハンドルの角度まで、そろえて。誰かの家の塀ぎわに、きちんと、立てかけ直される。
続いて、電柱の脇の、はみ出したゴミ袋。ふわり。収集所の白線の内側へ、ぴったり。めくれかけた選挙ポスターが、角ごと、ぴん、と貼り直される。道端に転がっていた植木鉢が、浮いて、向きをそろえて、軒先へ一列に。
乱暴さは、どこにもなかった。丁寧で、静かで、正確だった。......そして、冷たかった。誰のためでもない片づけ。誰にも、どうしたいか聞かない片づけ。ただ「正しい位置」へ、ぜんぶを、戻していく。
「なにが、したいの」まひるが身構えた。
凛は、答えなかった。黒猫だけを、見ていた。
「――なつかしい?」
そのとき。
『......ちがう』
低い声が、こぼれた。
みんなが、黒猫を見た。黒猫は、宙を行く植木鉢を、じっと目で追っていた。目の焦点が、ここじゃない、どこか遠くに合ったまま。
『順番が、ちがう。大きいものからだ。小さいのは、あとでいい。それと、角度。もっと、静かに置け。物には、置かれたい向きが――』
言いかけて。
黒猫の声が、ぷつりと、止まった。
「おい」太郎の声が、かすれた。「なんで、お前......ダメ出し、できてんだよ。今の」
黒猫は、答えなかった。答えられなかった。自分の口から出た言葉に、自分で、追いつけていなかった。
坂の景色の上で、白い二重写しが、すうっと、濃くなった。
「ほらね」凛が、静かに言った。「頭より先に、体が覚えてる。当たり前だよ。これ、キミのやり方なんだから。大昔の」
* * *
凛の球体が、もう半回転した。
ふわり、と。
キキの体が、浮いた。
「にゃ⁉」
「この子が、いちばん、はみ出してるしね」凛は、宙のキキを、物を見る目で見た。いつかの、かごの男性と、同じ目で。「はみ出しものは、正しい位置へ。そういう、やり方でしょ」
『やめろ』
黒猫の声が、割れた。平坦じゃなかった。
「止めなよ」凛は、動かなかった。「昔みたいに。直接」
黒猫の前足が、一歩、出た。
――そして、止まった。
直接、世界をいじる力は、もう、この体のどこにもない。修行中の身。人に選ばせることでしか、動かせない。かつて、その手で大きな力を振るった者の、いまの姿だった。踏み出した前足が、行き場をなくして、宙で、震えている。
凛は、それを、最後まで見た。
「うん」と言った。「もう、振るえないんだ。確認、とれた」
球体が、逆に半回転して、キキの体が、ふわりと地面に降ろされた。乱暴さのない、丁寧な、冷たい手つきで。
キキは着地して、すぐ、黒猫のほうへ駆けた。黒猫は、まだ、前足を宙に浮かせたまま、固まっていた。
* * *
「ねえ、クク」
まひるが、静かに言った。声が、少し震えていた。
「凛が、前に言ってたよね。梨畑で。"前の神様が、どうなったか、知ってて集めてるの"って」
『…………』
「倉庫のときもだ」太郎が続けた。「キキが箱で流されてったとき、お前、言ったろ。"関わると、ろくなことにならない"って。あれ、めんどくさがってたんじゃ、ねぇんだな」
『…………』
黒猫は、浮かせていた前足を、ゆっくり、下ろした。
それから、ぽつり、ぽつりと、こぼしはじめた。組み立てられた説明じゃなかった。欠けた破片が、順番もばらばらに、落ちてくるみたいに。
『......選ばせるのが、仕事だった』
「え?」
『でかい力を、あずかってた。俺のじゃない。あずかりものだ。最初は、ちゃんと、選ばせてた。人にも、物にも。どうなりたいか、聞いてから、動かした』
まひるが、はっとした。
「いまの、三択と、おなじだ」
『そのうち』黒猫は、目を閉じた。『俺が決めるほうが、はやかった。聞くより、片づけるほうが。正しい位置は、俺が知ってると、思ってた。......聞かずに、決めて、片づけた。何年も。何十年も』
坂の下で、きちんと立てかけ直された自転車が、夕日を浴びていた。誰にも、どうしたいか聞かれないまま。
『ある日、わからなくなった。俺の"正しい"は、誰の正しさなんだ、って。......わからないまま振るうのが、こわくなった』
『だから、置いた。役目ごと。......逃げた』
* * *
「降りて、どうなったんだ」太郎が聞いた。聞いていいのか迷いながら。
答えたのは、黒猫じゃなかった。
「振るう者を失った力は、止まらない」リラが言った。機械が仕組みを読み上げるみたいに、正確に。「最後に教わったやり方を、繰り返しつづける。何がいい歪みで、何が悪い歪みかも、わからないまま。ただ、片づけるためだけに」
『......最後に教わったのが』黒猫が、低く継いだ。『俺の、いちばん悪いくせだ』
『聞かずに、決めて、片づける。あの力は、それだけを覚えたまま。......今も、どこかで』
「それが」まひるの声が細くなった。「凛の言ってた、"前の神は、どうなったか"」
凛が、坂の下で、肩をすくめた。
「ごめいとう」
それから、凛は、片づいた坂道を、ぐるりと指した。立てかけ直された自転車。白線の内側のゴミ袋。一列の植木鉢。
「ね。おれのやり方、悪くないでしょ」凛の目は、笑っていなかった。「――キミの、発明だよ」
* * *
太郎が、黒猫の背中にそっと手を置いた。
「思い出したのは、わかった。お前が、なんかすごい役目、投げてきたのも。でも」太郎は、なるべくいつもの調子で言った。「今のお前は、うちの、腹減った黒猫だろ。それで、いいじゃねぇか」
『......太郎』
黒猫は太郎を見た。それから、隣で心配そうにこちらを見上げている白い子猫を見た。
キキを。
『戻ってきたのは、事実だけだ』
「じ、じつ?」
『俺が何者だったか。何をしてたか。どこで降りたか。ぜんぶ、戻ってきた』黒猫の目が、キキから離れなかった。『でも』
黒猫は、そこで言葉を切った。何かを、口の中で探すみたいに。探して、指の先が届かない、というみたいに。
『こいつと俺が、昔、どんなふうに一緒にいたのか』
『......そこだけが、ない』
キキの目が、まるくなった。
『事実は、ある。こいつが俺の相棒だった、ってことは、思い出した。でも、こいつと過ごした時間の、中身が』黒猫の声が、揺れた。『何をしゃべって、何で笑ったのか。手触りが、ぜんぶ抜け落ちてる。そこだけ、まっしろだ』
戻らなかった。
事実は、いくらでも戻ってくるのに。その一点だけが、どうしても戻ってこなかった。
* * *
キキは、動かなかった。
いつもなら「なんだそれ‼ わたしのこと忘れてたのか」と、まっさきに噛みつく子猫が、声を出さなかった。
キキには、わかってしまった。
自分は、ククが失くした"まっしろ"の、そのど真ん中にいるのだ、と。ククが、いちばん思い出せない場所に。
置いて、いかれた。ずっと昔に、一度。ククの記憶の中で。
その考えが、キキのいちばん柔らかいところを、ひやりと撫でた。なんで、自分のことだけ。なんで、自分と過ごした時間だけが――
そこまで考えて、キキはぶるっと頭を振った。深いところへ落ちていきそうになるのを、止めた。
* * *
坂の上に、しばらく、誰の声もなかった。
風だけが、二匹のあいだを、通っていく。
キキは、震えていた前足を、一歩前に出した。その一歩ぶんの距離を、詰めて。
そして、黒猫の鼻先に、自分の鼻を、こつん、とくっつけた。
「......いいにゃ」キキは小さく言った。「思い出せなくて、いいにゃ」
『......キキ』
「昔のわたしたちがどうだったかなんて、しらないにゃ。わたしも、たぶん半分くらい、忘れてるにゃ」キキは、へへ、と笑おうとした。うまく笑えなかった。「でも、今のクク、わたし、知ってるにゃ。腹減ってて、めんどくさがりで、ほんとは心配性の、黒いやつ。......それで、じゅうぶんにゃ」
黒猫は、しばらく、そのこつんとくっついた鼻を、じっとさせていた。
それから。
『......重い』
「照れるにゃ‼ 台無しにゃ」
太郎が噴き出した。まひるも笑った。
坂の下で、凛が、つまらなそうにその光景を見ていた。指先の球体も、回すのをやめていた。
「ふうん」凛は、球体を指でくるりと回した。「思い出しても、そうなるんだ。......熱、ってめんどくさいね」
そう言って、輪郭のほうから先に薄れて、消えた。つまらなそうな、けれどほんの少しだけ、何かを測りそこねたような顔で。
夕暮れの坂に、いつもの黒猫と、いつもの白猫が、鼻をくっつけたまま残された。
昔のことは、まっしろのままで。
でも、今日のところは、それでいい。




