でめ
その男は、交差点のまんなかで、賽を振っていた。
深夜だった。折りたたみの机を一つ、道の中央に置いて、その上で、大きな白い賽を、ころ、ころ、と転がしている。賽は、角がひとつ立つたびに、かつ、と硬い音を立てて、机の上で跳ねた。ころころ、かつ、ころころ、かつ。手が、止まらないみたいだった。
賽が、ぴたりと、六の目を出した。
とたんに、交差点の信号が、四つとも、満開の桜になった。赤でも青でもなく、枝いっぱいの花。花びらが、夜の交差点に、はらはらと降りはじめる。アスファルトが、うっすら桜色に染まる。
男は、笑わなかった。降る花びらを見もしない。すぐ、次を振る。
一の目。
机の脚が一本、ぼきりと折れた。男の体が、がくんと傾く。それでも男は、片手で机を立て直して、また振る。ころ、ころ。指の関節が、白くなるほど、賽を握っている。汗が、あごを伝って、机の上に、ぽたりと落ちた。
「なんだ、あれ」太郎が遠くから見て、つぶやいた。「一人で、すごろく、してんのか?」
『変異体だ』ククが低く言った。『振り切ったやつの、なれの果て。あの手のは、前に一度、見ただろう』
梨畑の、あの男を、太郎は思い出した。
* * *
リラが、男を見て、言った。
「あの人は、先が読みたかった。何が起きるか、ぜんぶ前もって知りたかった。だから、賽を手に入れた」
「賽って、いちばん、先が読めないやつじゃん」まひるが眉を寄せた。
「そう」リラはまばたきをしなかった。「読めるものが欲しかったのに、手に入れたのは、いちばん読めないもの。だから、止まれない。止まった瞬間に出る目が、いちばんこわいから」
男が、また振る。二の目。机の上の賽が、ぐるりと一回転して、道の端の自販機が、いっせいに釣り銭を吐き出した。じゃらじゃらと、小銭が夜道に散らばる。男は、それも見なかった。
四の目。今度は、何も起きなかった。男の顔に、一瞬、安堵が浮かんで――すぐ、消えた。何も起きない、ということは、次を振らなきゃいけない、ということだ。次の目が、こわいのだ。男の手が、賽の上で、細かく震えていた。
太郎が五枚を構えかけた。キキが五枚を焼こうとする。
『やめとけ』ククが止めた。『あいつに"事件"をぶつけると、賽の目に混ざる。もっとひどい目が出るぞ』
「じゃあ、どうすんだよ」
まひるが、机のほうへ歩きだした。いつもの、あの手つきで。手のひらを、男のほうへ向けかけて。
「――もう、振らなくて」
「むりだよ」
言い終わる前に、男が、かすれた声で遮った。
「振らないと。次に、何が起きるか、わからない。わからないのが......こわいんだ。止まったら、こわいのが、ぜんぶ、追いついてくる」
まひるの手が、宙で止まった。
「振ってれば、まだ、次があるから。次の目に、期待、できるから。止まれない。止まったら、終わりだ」
まひるは、差し出しかけた手を、そっと下ろした。
いつもなら、ここで「もう、しなくていいよ」と言えた。手放させて、鎮めて、それで片づいた。でも、この男は、手放すのがこわいのだ。取り上げても、また拾う。成仏を、いちばん、おそれている。
「効かない、これ」まひるが、小さく言った。
* * *
そのときだった。
キキが、たたっと机に駆け寄って、ひょい、と前足を机に乗せた。
「キキ⁉」
止める間もなかった。キキは、転がる白い賽を、まんまるの目で、しばらくじっと見ていた。それから、男を見上げて、けろっと言った。
「ねえ、それ。次、何が出るか、わかんないにゃ?」
男が、賽を握ったまま、キキを見た。
「ああ」
「いいにゃ、それ」
キキは、しっぽをぴんと立てた。
「わたし、それ、すきにゃ。だって、あけるまでわかんないほうが、たのしいにゃ。ポップコーンの機械もそうだったにゃ。コイン入れて、出てくるまで、どんな歌かわかんない。毎回ちがう。それが、いちばん、わくわくするにゃ」
男は、きょとんとした。
「わくわく?」
「うん。わかってたら、つまんないにゃ」キキは、机の上の賽を、前足で、ちょい、と小突いた。「あのさ。それ、"こわいの当てる"のに使ってるから、こわいんじゃないにゃ? "たのしいの当てる"のに使えば、いいにゃ」
ころ、と賽が転がって、三の目で止まった。
キキが、ぱっと顔を輝かせた。
「三‼ じゃあ、三、なにかいいこと。えーと......三歩あるいたら、いいことある‼」
男が、つられて、賽の三の目を見た。それから、ふらり、と、三歩、歩いた。
三歩目の足元に、さっき自販機がばらまいた小銭が、一枚、光っていた。百円玉だ。
「あ」
「あったにゃ‼」キキが飛び跳ねた。「ほら、いいことあったにゃ‼」
男の顔が、ほんの少し、ゆるんだ。数百回、賽を振ってきて、はじめて、出た目を、こわがらなかった。
* * *
「太郎」リラが、静かに言った。「今なら、混ざらない」
「あ?」
「彼の賽は、さっきまで"こわいもの"を数えてた。だから、"事件"をぶつけると、こわい目に足された」リラは、机の男を見た。「今は、"いいこと"を数えはじめてる。今なら、あなたの五枚が、悪いほうには、転ばない」
太郎は、一瞬、迷った。それから、スマホを構えた。
いつもみたいに、歪みを吹き飛ばすためじゃなかった。転がる賽の、次の目に、ちょっとだけ、いいことを乗せてやるために。
パシャ。夜の桜。パシャ。散らばった小銭。パシャ。折れかけた机の脚。パシャ。男の、ゆるんだ口元。パシャ。まんまるの目の、白い子猫。
五枚。
賽が、ころ、と転がって、五の目で止まった。
そのとたん、折れかけていた机の脚が、みしり、と伸びて、まっすぐ直った。散らばっていた小銭が、ころころと集まって、机の上に、小さな山を作る。降っていた桜が、風に乗って、男の肩に、一枚、ふわりと止まった。
いいことばかりが、五つ、起きた。
男は、机の上の小銭の山と、肩の花びらを、しばらく、見ていた。
それから――はじめて、賽を、机に置いた。
握りっぱなしだった手が、ゆっくり、開いていく。手のひらに、賽の角の跡が、赤く食い込んでいた。ずっと、握りしめていた跡だ。
「......振らなくても」男が言った。「いいこと、あるのか」
「あるにゃ」キキが胸を張った。「わかんないまま、まってれば。......ときどき、くるにゃ」
男は、置いた賽を、もう一度、手に取った。太郎が、ひやりとした。また、振るのかと。
でも、男は、振らなかった。
賽を、そっと、ポケットにしまった。振るためじゃなく、持っておくために。
「こいつは」男は、ポケットの上から、賽の角を、指でなぞった。「もう、明日を当てるのには、使わない。......明日は、明日、来てからでいい」
* * *
「――へえ」
声がした。
散る桜の、その向こう。街灯の光の輪の、ふちのあたりに、細長い影が一つ、いつのまにか伸びていた。人の形をした影が、花びらの落ちる中を、こちらへ届いている。
見上げると、交差点の、街灯の上。若い男が座っていた。指先で、黒い球体を、くるくると回している。
凛だった。
「相変わらず、しょうもない解き方するね、キミたち」凛はにこにこ笑っていた。「賽ころ一個に、"たのしいの当てれば"。やさしいこと」
「お前......」まひるが身構える。梨畑の、あの男だ。
キキが、はっとした。「このまえの、音‼ スーパーの外の、ころころって」
「あー、聞こえてた? ごめんね、下見してたの」凛は、球体を指の上で、ぴたりと止めた。「今日のは、ごあいさつ。本番は、もうすぐだから」
そして、凛の目が、すっと黒猫に向いた。
くるくる回していた球体を、手のひらに包んで。街灯の上から、脚をぶらつかせて。凛は、わざと間をあけて、それから、少し低い声で言った。
「なあ、黒いの」凛の声が、少し低くなった。「そろそろ、思い出した?」
ククは、答えなかった。
「キミが、なんで"新しい神様"なんか探してるか。前のが、どうなったか。いいかげん、気づいてるでしょ」凛は笑ったまま言った。「思い出したくないから、ずっと腹が減ったふりして、逃げてる。ちがう?」
黒猫のしっぽが、止まった。
いつもの、めんどくさそうな声が、出てこない。
黒猫は、じっと街灯の上の凛を見上げていた。その目の奥で、何かがぐらりと揺れた。ずっと昔の、見覚えのある景色が、一瞬、まぶたの裏に――
『…………』
そこで、止まった。
黒猫は、目を閉じた。ゆっくり開けたときには、いつもの、どうでもよさそうな目に戻っていた。
『......知らん』黒猫はそっぽを向いた。『腹が、減った』
「ふうん」凛は、つまらなそうに肩をすくめた。「ま、いいや。思い出すのは、キミの勝手なタイミングで」
凛が、ふわりと街灯から浮かび上がる。
去りぎわ、凛は、賽をポケットにしまった男を、ちらりと見下ろした。
「......でも、覚えときな」その目だけが、笑っていなかった。「そうやって拾った"わくわく"は、薄いんだよ。すぐ冷める。次の朝には、また、こわくなってる。......人間なんて、そんなもんだ」
「じゃ、また。次は、"ごあいさつ"じゃないよ」
黒い球体とともに、夜の色に溶けて、消えた。あとには、散りかけた桜だけが、まだ、落ちていた。
* * *
あとには、賽をしまった男と、桜の散った交差点と、そっぽを向いた黒猫だけが、残された。
「......クク」キキが、そっと近づいた。黒猫の横顔を、下から覗きこむみたいにして。「だいじょうぶ、にゃ?」
『なんでもない』
いつもの声だった。でもキキには、分かった。しっぽの止まり方も、目を閉じた長さも、いつもと違った。ぜんぜん、なんでもなくは、ない。
キキは、それ以上聞かなかった。ただ、黒猫の隣に、ちょこん、と座った。いつもより、半歩、近いところに。
『くっつくな』
「くっついてないにゃ。たまたま、ここがあいてただけにゃ」
黒猫は、それ以上何も言わなかった。ただ、半歩ぶんの距離を、詰めも、離しもしなかった。
* * *
太郎が、賽をしまった男に、声をかけた。
「あんた、家どこ。送ってくよ」
「いいん、ですか」男が、ポケットの賽に、そっと手を当てた。「これ、持って、帰って」
「持ってけよ、それくらい」太郎は言った。それから、少し考えて、付け足した。「明日のことは、どうせ誰にも分かんないんだ。振っても、振らなくても、同じだよ。なら、振らないで、待ってりゃいい。たまに、百円玉、拾えるってさ」
男は、ふっと、笑った。数百回ぶりに、こわがらない顔で。
「......なんか、店でも、やろうかな」と、男が言った。まだ、自分でも半信半疑みたいな声で。「明日のことが、わからなくても、やってける商売。あるかな、そんなの」
「あるだろ、たぶん」太郎は、適当に言った。「知らんけど」
「それ、ヒロユのやつにゃ‼」キキが噛みついた。
夜の道を、男が、賽をポケットに入れたまま、歩いていく。もう、振らずに。
桜の花びらが、まだ少し、落ちていた。
机の上には、もう、賽はなかった。かわりに、太郎の五枚が集めた小銭の山が、ちんまりと、朝を待っていた。




