まばたき
商店街のショーウィンドウに、自分が映っていた。
夕方だった。太郎とまひる、リラ、それに黒猫のククと白猫のキキが、閉店後の商店街を歩いていた。シャッターの下りた店が続く中で、まだ灯りの落ちていないガラスだけが、鏡みたいに通りを映す。並んだガラスに、五つぶんの姿が、順番に映っては、流れていく。
途中で、太郎は足を止めた。
ガラスの中の自分が、こっちを見ていた。
太郎はまばたきをした。ガラスの中の太郎は、しなかった。ほんの少し遅れて、像だけが、ゆっくり、まぶたを閉じた。閉じて、また、じっと見返してくる。
「なあ」太郎は隣のまひるを小突いた。「あれ、俺、だよな」
まひるも自分の映った像を見た。手を振ってみる。像は、振り返さなかった。ただ、じっとこっちを見ている。まばたきひとつ、しないで。まひるが右手を上げているのに、像は、両手を下げたまま。
『歪みだな』ククがあくびをした。『鏡ってのは、こっちを真似するもんだ。真似するのをやめて、見てるほうに回った』
「こわいこと平然と言うなよ‼」
キキが、ガラスに鼻をくっつけた。像のキキも、鼻をくっつけている。ぴったり、鼻の頭を合わせて。ただし、目は、閉じない。
「にゃー、っておどかしてみるにゃ」キキがガラスに口を開けて、牙をむいた。像のキキは、口を開けなかった。ただ、まんまるの目で、見返してくる。「こいつ、ぜんぜんノってこないにゃ。感じ悪いにゃ」
「お前の相手してる場合じゃないんだよ、あっちは」
* * *
まひるが、いつものように、ガラスへ手のひらを向けかけた。
「――もう、映さなくて」
「まひる。それ、たぶん効かない」
止めたのは、リラだった。
「これは、"手放したい"歪みじゃない。逆。この鏡は、映すのをやめたがってる歪みじゃなくて、映すのをやめられなくて、こっちを覗きにきた歪み」リラは、まばたきをしないまま、並んだガラスを端から端まで見た。「"もういいよ"は、たぶん、通じない。映すのが、こいつの、ぜんぶだから」
まひるの手が、宙で止まった。
「じゃあ、どうすんだよ」太郎が言う。
『鏡だぞ』ククがめんどくさそうに言った。『力でどうにかしようとしても、こっちの手を、そっくり真似して返してくるだけだ。太郎の五枚も、キキの奇跡も、鏡は同じものを映し返す。ぶつけるほど、こっちに返ってくる』
「じゃあ、なんも、できねぇじゃん」
『できないな。正面からは』
* * *
キキが、むう、と像を睨んでいた。さっき、にらめっこで無視された、あの像を。
「真似する、って言ったにゃ?」キキが言った。「クク。こいつ、なんでも真似するにゃ?」
『そう言っただろ』
「なんでも?」
キキの、まんまるの目が、きらっと光った。悪い顔だった。
「じゃあさ。......こいつに、"真似できないこと"やらせたら、どうなるにゃ?」
ガラスの中の像たちだけが、まだ、じっとこちらを見ていた。
太郎が、はっとした。
「あー。そうか。こいつ、真似が、"仕事"なんだ」太郎の頭が、めずらしく回りだした。「真似できないことを出されたら、こいつ、どうすんだ? 真似しないわけにいかない。でも、真似できない。詰む、のか?」
『理屈は、そうなる』ククが、ちょっと感心したみたいに言った。『鏡ってのは、映せないものを突きつけられると、居場所がなくなる。映すのが仕事なのに、映せないんだからな』
「よし」太郎が、腕をまくった。「じゃあ、こいつに、真似できねぇもん、やらせよう」
* * *
はじめは、うまくいかなかった。
太郎が、変な顔をした。像も、変な顔をした。まひるが、片足で立った。像も、片足で立った。キキが、ぐるぐる回った。像も、ぐるぐる回った。鏡は、なんでも、そっくり真似してくる。ずれるのは、まばたきひとつぶんだけ。
「くそ、真似できねぇもん、って、なんだ」太郎が頭をかいた。「鏡の前でやること、ぜんぶ、真似されるだろ」
「そりゃ、鏡だもん」まひるが言う。
リラが、静かに言った。
「鏡が真似できるのは、"映るもの"だけ」
三人が、リラを見た。
「形。動き。色。映るものは、ぜんぶ真似する」リラは、まばたきをしないまま言った。「でも、映らないものは、真似できない。鏡は、光を跳ね返すだけだから。跳ね返せないものは、映せない」
「映らないもの......」太郎が考えこんだ。「音、とか?」
「音は、跳ね返る」リラが言う。「反響する。だめ」
「......におい」まひるが言った。
一拍、あった。
リラが、まひるを見た。
「におい」リラは、その言葉を、確かめるみたいに繰り返した。「鏡は、においを、映さない。跳ね返せない。真似、できない」
* * *
「キキ‼」太郎が振り向いた。「お前、鼻きくだろ。においで、なんかできねぇか」
「まかせろにゃ‼」キキが胸を張った。それから、はた、と止まった。「で、なにするにゃ?」
「わかんねぇよ‼ お前が言い出したんだろ」
『待て』ククが割って入った。『におい、で、こっちの動きを"作る"んだ。像が、絶対に、真似できない動きを』
黒猫は、ゆっくりと、三枚のカードを宙に出した。いつもの三択。ただし、今日のは、雑じゃなかった。一枚ずつ、くっきりと。
【鼻を、追わせる】
「一枚だけかよ」
『残り二枚は、いらん』ククが言った。『今日は、これでいい』
まひるが、その一枚を、ばしっと叩いた。
その瞬間、キキの体から、ふわりと、甘いにおいが立った。焼きたてのポップコーンの、あの、モールのにおいだった。キキの、いちばん古い記憶の、においだ。
そのにおいが、すう、と、ガラスの前を、横に流れた。
キキが、そのにおいを、鼻で追った。においの流れるほうへ、くん、くん、と顔を動かす。においは、右へ、左へ、上へ、キキの鼻を、気まぐれに引っぱっていく。キキの顔が、においだけを頼りに、ふらふらと、宙をなぞる。
ガラスの中の像が、止まった。
像には、においが、映らない。キキが何を追っているのか、像には、見えない。キキの顔は動いているのに、その"理由"が、鏡には、跳ね返ってこない。
像のキキが、真似しようとして――できずに、一瞬、ぴたりと固まった。
* * *
「今だ‼」太郎が、五枚を構えた。
いつもの吹き飛ばす五枚じゃなかった。太郎は、ガラスに映らないものばかりを、撮った。ポップコーンのにおいの、流れる空気。パシャ。キキの鼻の、動くさき。パシャ。誰にも見えない、においの通り道。パシャ。閉じかけた、夕暮れの、最後の光。パシャ。そして――まばたきを、しない、像の目。パシャ。
五枚。
像が、揃わなくなった。
キキの像も、太郎の像も、まひるの像も、リラの像も。いっせいに、こちらの動きから、ずれはじめた。手を上げるのが遅れる。まばたきが、ばらばらになる。真似が、追いつかない。映せないものを、突きつけられた鏡は、映すことそのものが、渋滞していく。
「三枚目のガラス」リラが言った。「あそこだけ、映り込みの角度が、ほかと違う。芯は、あの奥」
三枚目のショーウィンドウの奥。潰れた古着屋の、埃をかぶった姿見が一つ、壁に立てかけてあった。誰かが店じまいのとき運び出しそこねて、そのまま置き去りにした、大きな鏡だ。もう長いこと、誰のことも映していない。表面に、うっすら、白い埃の膜がかかっている。
「あそこか」太郎が、シャッターの隙間へ、キキのにおいの残りを、押しやるように、手をふった。
* * *
そのときだった。
まひるが、動いた。
謎解きの手が止まった、その一瞬に。まひるは、シャッターの隙間から、姿見のほうへ、そっと手のひらを向けた。
覗きにきた歪みを、詰めて、追いこんで。逃げ場のなくなった、その芯に。
だから、今度は、成仏させる言葉じゃなかった。
「――もう、真似しなくて、いいよ」まひるは静かに言った。「映すの、じょうずだね。ずっと、ひとりで、練習してたんでしょ。......だれも、見に来なくなっても」
姿見の、白い埃の膜が、つう、と、ひとすじ、涙みたいに、流れた。
その下から、久しぶりに、まひるの顔が、映った。
* * *
ショーウィンドウに並んでいた像が、いっせいに、まばたきをした。太郎が手を振ると、今度はちゃんと、振り返してくる。ただの、鏡に戻った。
「解けた?」まひるが聞いた。
「解けた、っぽいな」太郎が、像に、変な顔をしてみせた。像も、ちゃんと、変な顔を、真似した。「あー、真似してくる。もどってる」
キキが、ふふん、と胸を張った。
「わたしのおかげにゃ‼ においの作戦、わたしが考えたにゃ」
「におい出したのはお前だけど、作戦考えたの、半分ククだろ」
「半分は、わたしにゃ‼」
『四分の一だ』ククがそっぽを向いた。
「へってるにゃ‼」
* * *
帰り道。まひるは、少し後ろを歩くリラの横に並んだ。
「ねえ、リラ」
「なに」
「さっきの鏡さ。あんたに、似てるなって、思っちゃった」まひるは正直に言った。言ってから、しまった、と思った。「あ、ごめん。映すだけ、とか、まばたきしない、とか。そういう意味じゃなくて」
リラは、少し歩いてから言った。
「似てる、で、合ってる」
まひるがリラを見た。
「わたしも、あの鏡も、造られた物。誰かが、そういう風に作った」リラは前を向いたまま言う。隠すでも、うつむくでもなく。「隠すことじゃない。......ほんとのことだから」
声は、静かなままだった。まひるは、なんと返せばいいか、分からなかった。
「でも」リラが続けた。「あの鏡は、映すことしか、教わってなかった。だから、映すのをやめられなかった」リラは、自分の手のひらを、少し見た。「わたしは、......映す以外のことも、最近、おぼえた。まひると、歩くとか。へたな、まばたきとか」
そのとき、リラがまひるのほうを見て――
まばたきを、ひとつ、した。
わざと、ゆっくり。上のまぶたが降りて、少し止まって、また上がる。一つ一つの動きを、指で数えているみたいに。まるで、やり方を、練習しているみたいに。
「こういうの、するようになった」リラが言った。「まひるが、こわい、って言ってたから。しないと、こわいのかな、って」
まひるは、思わず噴き出した。
「へたくそ‼ タイミング、変‼」
「そう」リラは、少しだけ口の端を動かした。笑った、のかもしれなかった。「......練習する」
「しなくていいよ、べつに」まひるは笑ったまま言った。「リラは、リラで。......まばたき、しなくても、こわくないから。もう」
リラは、答えなかった。
ただ、そのあと、家までのあいだに、二回、まばたきをした。一度は速すぎて、一度は遅すぎた。
たぶん、練習だった。
* * *
先を歩くキキが、ふと振り返った。
「なにこそこそ話してるにゃ‼ わたしにも聞かせろにゃ」
「お前は、さっき鏡に、においで勝っただろ」太郎が言う。「今日は、それでいいじゃねぇか」
「勝ったにゃ‼ にらめっこは負けたけど、においで勝ったにゃ。さしひき、勝ちにゃ‼」
「にらめっこ、負けは認めるんだな」
リラは、まだ、まばたきの練習をしていた。速すぎる一回と、遅すぎる一回。どうにも、人の間合いにならない。
夜の商店街に、まばたきをしない鏡は、もう、なかった。




