つくりもの
その歪みは、雨みたいに降ってきた。
夕方の交差点。信号が、四方ぜんぶ青になって、それでいて、誰も進めなくなっていた。横断歩道の手前で、人が、片足を上げかけたまま止まっている。車のタイヤは、青信号を映してぬらりと光っているのに、一ミリも前へ出ない。自転車のペダルに乗せた足が、宙で固まる。進んでいいはずなのに、体が、前に出ない。踏み出そうとすると、みぞおちのあたりが、すっと空になる。
「なんだこれ」太郎が足を止めた。自分の足も、動かなかった。爪先を上げようとして、上がらない。「前に、進めねぇ」
『"許し"の歪みだ』ククが低く言った。『みんなに、進んでいい、って出てる。出すぎてる。だから逆に、誰も、自分で踏み出せなくなってる』
信号の柱の根元で、赤ん坊の泣き声みたいな、細い電子音が鳴っていた。ピー、ピー、と、途切れずに。歪みの芯は、そこにあった。
そのときだった。
止まった車の一台が、つう、と動きだした。ブレーキの利かない、無人の一台。誰も乗っていない運転席が、青信号の下を、まっすぐ、まひるのほうへ滑ってくる。
まひるの足は、動かなかった。上げかけた爪先が、宙で、震えている。
「まひる‼」
いちばん近くにいたのは、リラだった。
* * *
リラが、まひるの前へ出た。
その動きに、迷いが、なかった。人が「あぶない」と思ってから体を動かすときの、あの一拍の遅れが、ない。見て、踏み込んで、受ける。三つの動作のあいだに、隙間がなかった。まるで、最初から答えを知っていた手順を、順番になぞるみたいに。
突っ込んできた車のバンパーを、両手で、正面から受け止める。細い中学生の体が、アスファルトを二メートル、ぎ、ぎ、と削って、押し戻された。靴の裏から、白い煙が上がる。
車が、止まった。
「リラ‼」まひるが我に返って駆け寄る。「だいじょうぶ⁉ ごめん、わたし――」
リラは、立っていた。
腕が、おかしな角度に曲がっていた。肘から先が、あってはならない方へ、ぐにゃりとねじれている。人の腕なら、悲鳴をあげて、うずくまるはずの折れ方だった。
リラは、悲鳴をあげなかった。うずくまりもしなかった。
自分のねじれた腕を、少し不思議そうに、他人の物みたいに見て、それから、もう片方の手で、こきり、と枝を直すみたいに、元の向きへ戻した。
痛がる顔は、一度もしなかった。
破れた制服の袖の下から、覗いていた。血じゃなかった。赤いものは、一滴も出ていない。ねじれた継ぎ目の奥で、細い、銀色の線が、何本か、ぷつりと切れて、街灯を弾いて光っていた。夕方の光の中で、その一点だけが、やけに冷たく、きらきらしていた。
太郎の息が、止まった。まひるの息も、止まった。さっき歪みで動けなかったのとは、別の理由で。喉の奥で、言葉が、行き場をなくしている。
「......リラ」まひるの声が、かすれた。「あんた、」
「見た?」
リラは、いつもの平坦な声で言った。
「言ったでしょう。......作られ方が、違うだけ」
* * *
リラは、切れた継ぎ目を、隠しもしなかった。
「あなたたちは、生まれる。わたしは、造られた」リラは、ねじれの戻った腕を、軽く握って、開いた。指が、一本ずつ、ちゃんと動く。「痛いって感じるように、造られてない。こわいって感じるように、造られてない。......だから、さっき、まひるの質問に、答えられなかった」
まひるは、レジの夜の問い返しを思い出した。――こわい、ってどういう感じ?
「見れば分かる、って言ったでしょう」リラは、切れた継ぎ目を、指でそっとなぞった。「これは、そういう風に、できてるから。......ずっと、そうだった」
太郎が、ようやく口を開いた。
「じゃあ、お前......最初から、ぜんぶ知ってて。自分が、その、」
「造りもの、って?」リラが、先を引き取った。「知ってた。ずっと」
声は、揺れないままだった。悲しくも、つらくもなさそうだった。声を落とすでも、目を伏せるでもない。ただ、事実を、事実として、机に置くみたいに、置いただけの声。
だから、よけいに、太郎は何も言えなかった。
* * *
歪みは、まだ鳴っていた。信号の柱の根元で、細い音が。みんなが、まだ、進めないでいる。片足を上げたまま、道の途中で、みんな、彫像みたいに固まっている。
「交差点、どうにかしないと」太郎が我に返った。「みんな、動けないままだ」
『芯は、あの音だ』ククが柱の根元を見た。『"進んでいい"が、あふれて詰まってる。誰か一人が、自分の足で、いちばん最初に踏み出せば、栓が抜ける』
でも、誰も、動けない。進んでいいと言われすぎて、自分で選ぶ、ということが、できなくなっている。
リラが、歩きだした。
折れて、継いだばかりの体で。青信号の下を、まっすぐ、一歩。また、一歩。誰に許されなくても、自分で決めた足取りで。周りの誰も、まだ、片足を上げたまま止まっている。その、止まった人たちのあいだを、たった一人、リラの足音だけが、こつ、こつ、と進んでいく。柱の根元まで歩いて、その細い音の芯を、指で、ぱちん、と止めた。
音が、やんだ。
交差点が、ほどけた。止まっていた車が、人が、自転車が、いっせいに、また動きだす。何ごともなかったみたいに、みんな、それぞれの方向へ進んでいく。青信号は、ただの青信号に戻った。
誰も、たった今、青信号の下で自分だけ歩いた中学生のことなんて、見ていなかった。人の波が、リラの横を、無関心に流れていく。
「......リラは」まひるが言った。「造られたって、言うけど」
リラが、振り返る。
「自分で、いちばん最初に、歩いたよ。今」
リラは、少しだけ、黙った。まばたきを、しないまま。
「......そう」
それだけ言った。けれど、その"そう"は、レジの夜の一拍遅れとは、少し違う気がした。あのときより、ほんの少しだけ、何かを確かめるみたいな間があった。まひるには、うまく言えなかったけれど。
* * *
帰り道。
ずっと後ろで、電柱にもたれて寝ていたヒロユが、めずらしく、半分だけ目を開けた。
歩いていくリラの、破れた袖の、その継ぎ目のあたりを、けだるそうに、細めた目で見ていた。
「......あー」ヒロユが、口を開きかけた。喉が、ひとつ、上下する。「お前、あれ。......〝王〟の――」
言いかけて、やめた。
半端に開いた口が、そのまま、大あくびに化けた。
「......いや。なんでもない。ふぁぁ」
「なんか言いかけたよね今‼」まひるが振り返る。
「言ってない。寝てた」
ヒロユは、また、目を閉じた。寝たふりの、まぶたの奥で、言いかけた何かを、ゆっくり、飲み込むみたいに。
リラは、聞こえていたはずだった。けれど、振り返らなかった。ただ、折れて継いだ腕を、軽く一度、握って、開いた。
その夜、リラは、いつもより少しだけ長く、自分の手のひらを、見ていた。
痛くもない、こわくもない、造られた手を。
さっき、自分で、いちばん最初に、踏み出した足を。




