かご
その朝、まひるの家のまわりだけ、"四角い空白"が、少しだけ開いていた。
郵便受けの蓋が、半分。押し入れの襖が、握りこぶし一つぶん。玄関脇の宅配ロッカーも。ぴったり閉じているべきものが、どれも、わずかに口を開けている。数本先の通りのポストは、いつもどおり閉まっていた。まひるの家の、まわりだけ。
「なんだこれ」太郎が、開いた郵便受けを覗きこんだ。空だ。「なんで、うちのだけ、ぜんぶ半開きなんだ」
キキが動かなかった。
いつもなら、そういう隙間にまっさきに自分から収まりにいく子が、今日は太郎の足の後ろで、背中の毛を逆立てて、じっとしていた。
「......くる」キキが小さく言った。「今日は、わたしが収まりにいくんじゃないにゃ。"収めにくる"ほうにゃ」
* * *
昼を過ぎても、その空白は開いたままだった。閉めても、しばらくするとまた、ひとりでに開く。誰も気にしなかった。「戸の建て付けが悪いのねえ」で、みんな済ませていた。
夕方、まひるの部屋の窓の下に、あの男性が立っていた。
地味なカーディガン。折り目のついたズボン。かごを提げて、穏やかにこちらを見上げている。三度目だった。
太郎が階段を駆け下りたときには、もう遅かった。
その男性は掃き出し窓の前に立って、キキを見ていた。キキは逃げようとして、けれど体が動かないみたいだった。開いた押し入れの隙間が、すぐ後ろにある。そこへ吸い込まれそうになっている。
男性が、両手をそっと伸ばした。
こわれ物を扱うみたいな、丁寧な手つきだった。生き物を持ち上げる手ではない。棚からしまい忘れた品物を一つ回収するときの手だ。その手に、生き物と物の区別はなかった。
指先が、キキの体に触れかけた。
太郎の手が、反射でスマホへ伸びかけた。授けを待つ、いつもの手つきで。――が、その指先が、スマホより先に、うっすら熱い。授けじゃない。太郎の内側から来る熱だった。握って、下ろした。
* * *
黒い影が割って入った。
ククが、キキとその手のあいだに体をねじ込んでいた。低く身を伏せて、喉の奥から、聞いたことのない低い音を出している。
『......触るな』
いつもの、めんどくさそうな声。でも今日は、微塵も揺れていない。ひどく、固かった。
その男性は、伸ばした手を止めた。
怒りも焦りもなかった。ただ少し困ったみたいに、首をかしげただけだった。
「邪魔を、なさる」
穏やかにそう言って、かごを持ち直す。
「無理にはしませんよ、わたしは」男性はキキを見た。「あなたは、いつか自分から、きれいに収まりたくなる。その時に、また来ます」
それだけ言って、男性は背を向けた。夕暮れの路地へ、ゆっくりと歩いていく。開いていた家のまわりの空白が、その背中を追うように、ひとつ、またひとつと静かに閉じていった。
* * *
キキは、まだ押し入れの隙間のすぐ前にいた。
背中の隙間が、まだうっすら開いている。収まれば、きっと楽なのだ。ぴったりと収まってしまえば。
キキは震えていた。四本の足が、小刻みに。
それでも。
一歩。
自分の足で、隙間から前へ踏み出した。ぴしゃん、と後ろで襖が閉じる。
「......でていかない、にゃ」
キキは、誰にともなく言った。
「わたしは、まだ、ここにいるにゃ。収まらないにゃ。じぶんで、きめるにゃ」
襖の音が消えたあとの部屋に、キキの小さな宣言だけが残った。
太郎はしばらく黙って、それからしゃがんで、キキの頭を指でぐりぐりした。
「......おう。上出来だ」
「いたいにゃ‼ なでるなら、もっとやさしくにゃ」
いつもの声だった。
それから、キキは、閉じた襖を、もう一度だけ見た。
「......ほんとは、にゃ」小さな声だった。「モールの機械の中にいたのも、半分は、かくれんぼだったにゃ。あの中にいれば、"追ってくるもの"に、見つからない気がしてたにゃ」
「追ってくるもの、って」太郎が眉を寄せた。「お前、最初に俺を呼んだとき、言ってたやつか。"追ってくるものはもういない"って」
「言ったにゃ。あれは、じぶんに言ってたにゃ」キキは、へへ、と笑った。「......まちがってたけど」
「ちなみに、なんで俺の名前知ってたんだ」
「機械は、会員カードが読めるにゃ」
「個人情報‼」
いつものツッコミで、部屋の空気が、すこしだけほどけた。
その少し後ろで、黒猫がさっきの姿勢のまま、まだ路地のほうを見ていた。ゆっくりと、伏せていた身を起こす。喉の音は、もう止んでいた。
『今日のところは、それでいい』
めんどくさそうにそう言って、黒猫はあくびをひとつした。




