かいしゅう
その軽トラックには、運転手がいなかった。
夜の十時過ぎ。住宅街の細い道を、白い軽トラがのろのろと流していく。ナンバープレートは、あるのに読めなかった。数字がにじんで、見るたびに桁が違う気がする。荷台は乾いて、空だった。
スピーカーだけが、間延びした声を繰り返している。
「ご家庭で、ご不要になりました、テレビ、冷蔵庫、こわれた自転車......なんでも、お引き取りに、まいります......」
その声は、ほんのわずかに遅れて重なっていた。同じ言葉が、半拍ずれて、二重に聞こえる。
太郎は、まひるの部屋の窓から、それを見下ろしていた。
「あれ、もう三周目だぞ。さっきから、同じ角ばっかり曲がってる」
二階の窓の灯りが、一つ、また一つと消えていく。うるさいなと思いながら、みんな布団をかぶるのだ。外へ出てくる者は、一人もいなかった。
『歪みだな』ククが、窓辺であくびをした。『あの車、探してる。"本当に捨てられた物"を、一つ』
「探してる?」
『それを引き取れたら、止まる。でも、この辺の連中は、なんにも外に出さない。面倒だからな』ククは目を細めた。『だからあいつは、いつまでも、集めそこねてる』
* * *
二人と二匹で、夜の道へ降りた。
軽トラは、どれだけ回っても止まらなかった。荷台を空にしたまま、何かを探すように、同じ道をぐるぐると巡っている。近づいても、逃げも、急ぎもしない。ただ、こちらを一台の物として通り過ぎていく。
「これ、いつ止まるんだ」太郎が併走しながら聞いた。
『言っただろ。一つ、引き取れたらだ』
キキが、車の前へ回り込もうとして、ぴたりと足を止めた。
「なんか、やだにゃ、この車」
いつもなら真っ先に突っ込んでいく子が、今日は太郎の足の後ろで、背中を低くしていた。
太郎は、道の端に目をやった。潰れたビニール傘が一本、電柱に立てかけてある。骨が折れて、もう半年はそこにあった。誰かが「今度捨てよう」と思ったまま、忘れている傘だ。
「まひる。あれ、いいか」
まひるは、傘のところまで歩いていって、拾い上げた。しばらく、それを見ていた。
「これ、田口さんちのだ」と言う。「ずっと、"今度こそ捨てる"って言ってる、やつ」
「じゃあ、もう要らないやつだろ」
「そう、なんだけど」まひるは、折れた骨をそっと指でなぞった。「一回、渡しちゃったら。もう、戻ってこないんだよね。これ」
要らない物だ。誰も惜しんでいない。それでも、手放すというのは、少しだけ、何かを閉じることに似ていた。
まひるは、息を一つ吐いて、傘に手のひらを向けた。
「――どうぞ。持ってってあげて」
その瞬間、軽トラがぴたりと止まった。荷台のあおりが、ひとりでにパタンと開く。折れた傘がふわりと浮いて、荷台へすべり込んだ。
それきり、スピーカーの声は、ぷつりとやんだ。
「傘一本で鎮まった」太郎が拍子抜けした声を出す。「町ぜんぶ起こしといて」
* * *
エンジンの余韻が消えて、あたりが静かになったとき。
軽トラの荷台のわきに、いつのまにか、人が立っていた。
白衣ではない。地味なカーディガンに、きちんと折り目のついたズボン。眼鏡の奥の目は穏やかで、動きは丁寧だった。その人は荷台の折れ傘を両手で、こわれ物でも扱うようにそっと持ち上げ、傍らのかごへ静かに移した。まるで店の棚を整えるみたいに。生き物と物の区別が、その手には、なかった。
「あの」太郎が声をかけた。「誰、すか」
その人は顔を上げると、太郎ではなく、足元のキキを見た。穏やかに微笑んで、ひとことだけ言う。
「きれいに収まりそうな子ですね」
キキの背中の毛が、ぶわりと逆立った。声も出さず、ただ固まっている。いつもの「にゃ」が、一つも出てこない。
* * *
太郎は、冗談にしたかった。
いつもなら、そうする。「宛先が不穏なんだよ」でも、「棚の見過ぎだろ」でも、なんでもいい。軽くして、笑って、それで済ませてきた。ずっとそうやって、しょうもない怪異を、しょうもないまま片づけてきた。
でも、できなかった。
物みたいに見られたキキの、逆立った背中を見ていたら、口の中で言葉が、ぜんぶ乾いた。うまく言い返せない。守れない。ただ、突っ立っている。自分が、こんなにも足りない。
気がついたら、スマホを構えていた。反射だった。いつもの、五枚。
パシャ。
――冷たい。
指の下で、画面は、ただの画面だった。熱も、光も、ない。あの、授かるときの、手のひらがじんとする感じが、来ない。もう一度。パシャ。何も起きない。撮っても、撮っても、死んでいる。
(またこれか)
あの時計台のときと、同じだ。キキがいないと、俺はただの――
いや。キキは、いる。すぐそこに、いる。いるのに、来ない。
何かが、切れた。
太郎は、スマホを自分に向けた。
理由なんて、なかった。ふがいなさが、行き場をなくして、ただ内側へ折れただけだった。あと三回撮れば、五枚だったのに。そんなことも、もう、どうでもよかった。レンズの中の、間抜けな自分の顔へ。
パシャ。
パシャ。パシャ。パシャ。
何度も、何度も自分を切った。力を起こすためじゃない。壊れていく音を、確かめるみたいに。
――そのときだった。
太郎を中心に、風が、生まれた。
スマホからじゃない。画面は、まだ冷たいままだった。風は、太郎そのものから、噴いていた。写真も、五枚も、キキの授けも、何もかもを飛び越えて。ただ、太郎の中にあった張りつめたものが、生のまま、外へ出た。
うなる竜巻が、太郎の周りで立ち上がる。その風は、太郎の目に従った。見たほうへ、傾く。大きくなる。バリバリと、今まで聞いたことのない音が鳴った。
キキが、固まったまま、目を見開いた。
「これ」ひげの先まで、震えていた。「これ、わたしの、授けじゃ、ないにゃ」
キキは、渡していない。なのに、噴いている。
太郎の、そのものが。
* * *
その人は、初めて、太郎を見た。
キキではなく、太郎を。今まで一度も、その目に映っていなかったはずの、ただの変な大学生を。
竜巻が、すぐそばで吼えていた。カーディガンの裾が、少しだけ揺れる。それだけだった。倒れも、慌てもしない。かごの中の傘は、ことりとも動かなかった。
その人は、嵐の中で、ほんの少し困ったように、穏やかに首をかしげた。
「ああ。あなたも、いらしたんですね」
それ以上は、何も言わなかった。かごを提げ直し、背を向けて、夕暮れの――もう夜だというのに、どこか夕暮れめいた――路地の向こうへ、いつものように、ゆっくりと歩いて、消えていった。
風が、太郎を置いて、ほどけていった。
* * *
あとには、ひどい有様が残った。
道端の植木鉢が転がり、電柱の貼り紙が剥がれて宙を舞い、誰かの家の物干し竿が斜めになっている。派手に散らかっていた。あとで、絶対、怒られるやつだ。
太郎は、自分の手のひらを見ていた。
何が起きたのか、自分でも、わからなかった。ただ、さっきまでの、ぜんぶ乾いた感じは、消えていた。手のひらに、まだ、うっすら熱が残っている。
「これ」太郎は、散らかった道を見回して、言った。「片づけんの、俺らか?」
「太郎」キキが、そろそろと足元に寄ってきた。まだ、少し声が震えている。「今の、なんにゃ。わたし、授けてないにゃ。授けてないのに、なんで......」
「知らねぇよ。俺が聞きたい」
キキは、消えた路地のほうを、じっと見ていた。
「あの人。......わたしのこと、"棚"を見る目で、見てたにゃ」
太郎は、うまく言い返せなかった。今度は、乾いたからじゃない。ただ、その通りだと思ったから、何も言えなかった。
そのとき、黒猫が、低く言った。声はいつもどおりで、目だけが、まだ路地の消えた角を離れない。
『......太郎』
「ん?」
『お前、そんな撮り方、できたのか』
それだけ言って、ククは、めんどくさそうに、あくびを一つした。答えは、返さなかった。
夜の道に、回収車の声は、もう聞こえない。傘一本は、ちゃんと引き取られた。歪みは、片づいた。
なのに、片づいた気が、まるでしなかった。
消えたはずの気配が、まだ町のどこかに残っている。そして、太郎の手のひらの熱も、しばらく、引かなかった。




