ごえい
物流倉庫の一件から数日が経った。まひるの部屋で、太郎は妙なものを見ていた。
黒猫のククが、キキの真横にいる。
いつもは窓辺で我関せずと丸くなっているあの黒猫が、今日はキキが右へ動けば右へ、左へ行けば左へ、びたりと横について離れない。キキが押し入れのわずかな隙間をのぞきこもうとすると、黒い体がすっと割り込んで塞いだ。ちゃぶ台の下にもぐろうとすれば、先回りしてそこに座っている。カーテンの裾がめくれて、その奥の暗がりへキキの目が吸い寄せられかけると、黒猫は無言で尻尾を巻きつけて、視線ごと引き戻した。
「なあ」太郎がまひるにささやいた。「クク、あれなんだ」
「護衛じゃない?」まひるもひそひそ声で返す。「昨日からずっとあれだよ」
「クク‼」キキがとうとうキレた。「さっきからなんなんだにゃ‼ 監視すんな」
『別に』黒猫は目をそらした。前足を揃えたまま、微動だにしない。『たまたま腹が減って、この辺にいるだけだ』
「さっき、わたしがトイレに行くのにもついてきたにゃ‼ 腹、関係ないにゃ」
『気のせいだ』
「気のせいで扉の前に座ってるやつがいるか‼」
太郎がぷっと噴いた。
「いや、わかるぞキキ。お前この前、箱で天国に出荷されかけただろ。ククなりに心配――」
『してない』
食い気味だった。キキが言い終わるより早く、被せるように。
「――こわ。食い気味で否定するの、いちばん心配してるやつじゃん」
* * *
その日の夕方、まひるのスマホにまた伝言が来た。商店街のいちばん奥、潰れた喫茶店。そのシャッターの隙間から、夜になると大量の風船がひとりでに膨らんで、あふれ出してくるのだという。
「歪みだにゃ‼」キキの目が輝いた。「まかせろにゃ。わたしがあの隙間に突っ込んで――」
その尻尾を、黒猫が前足で踏んだ。
「にゃっ」
『隙間に突っ込むな』
「なんでだにゃ‼ いつもは勝手にしろって顔してるくせに」
『............』
そこからがひどかった。
いつもなら、キキが考えなしに隙間へ突っ込み、変なものを引っぱり出し、太郎が「引っぱり出すな‼」とツッコむ。その勢いで、なんとなく片づく。それができない。ククがキキを隙間に行かせないのだ。
キキはむくれて動かない。ククはただ塞ぐ。太郎の五枚は、キキがへそを曲げているせいで、いつまでたっても熱を持たない。手のひらは、ひやりと冷たいままだ。まひるが気合いでシャッターを叩いた。
「あけろ――‼」
シャッターはびくともしなかった。錆びた鉄が、ごん、と鈍く鳴っただけ。風船だけが、ぷう、ぷうと隙間から増えていく。赤、黄、みずいろ。色とりどりの風船が、シャッターの下から、ぷりぷりとあふれ出して、路地に転がっていく。
「完全に膠着してんな」太郎が頭をかいた。
* * *
そのとき、キキがぷいっとククの前足の下から尻尾を引き抜いた。
「――しらない‼ もう行くにゃ」
止める間もなかった。白い子猫がシャッターの隙間へ、ぼふんと頭から突っ込んでいく。
『......っ、キキ‼』
黒猫の声が、割れた。いつもの平坦さが、どこかへ消えている。黒猫がその隙間へ飛びつく。けれど、キキのほうが速かった。
隙間の向こうで、ぼす、ぼす、ぼすと風船が片っぱしから割れる音がした。それから――
「――みつけたにゃ‼」
キキが隙間から顔を出した。口には、しぼんだ古い風船を一個くわえている。色の抜けた、ゴムのひび割れた、ずいぶん古い風船だ。二十年前、この「純喫茶ひかり」の開店祝いに、常連の誰かがくくりつけていった一個。店が潰れても、誰にも忘れられたまま、ずっと膨らみ続けていた、店の未練みたいな風船だった。
キキがそれをぺっと吐き出すと、シャッターの奥の風船が、いっせいに力尽きたようにしぼんで、静かになった。路地の色とりどりも、しゅうしゅうと縮んでいく。
しょうもない決着だった。
キキがふんと胸を張る。
「ほら、な。行けば、こうなるにゃ」
黒猫は隙間の手前で、飛びつきかけた間抜けな格好のまま、固まっていた。
* * *
帰り道。
「クク」キキが歩きながら言った。「あのな。......わたし、ちゃんと戻ってくるにゃ」
『............』
「箱のときは、たしかにあれだったけど。自分で行って、自分で戻るのは平気にゃ。だから、そんなにべったりしなくていいにゃ」
黒猫はしばらく黙っていた。それから、ぼそっと言った。
『勝手にしろ』
「うん」
『ただし』
黒猫が、ちょっとだけ間をあけた。
『......あんまり遠くには行くな』
キキが目をまるくした。それから、にっと笑う。
「ふうん。やっぱり心配してたにゃ」
『してない』
「照れんな‼」太郎が横から拾った。
『......してない』
キキは、ふふん、と鼻を鳴らして、先を歩きだした。心配されるのも、たまには悪くない、という顔で。




