Δ−3 (デルタ・スリー) ー9
「懐かしいってのはな」
俺はすぐには続きを口にしなかった。
雨上がりの空気をゆっくりと肺へ吸い込み、湿った息を静かに吐き出す。
頬を撫でる夜風は少し冷たい。
さっきまで降っていた雨が街の熱を奪い去り、荒野には澄み切った空気だけが残っていた。
足元の割れたアスファルトには無数の水溜まりができている。
そこへ企業塔の広告灯が映り込み、赤や青、紫の光が揺らめいていた。
風が吹くたび、水面は小さく震え、光は砕け散るように形を変える。
遠くには崩れた高架道路。
鉄筋が剥き出しになった橋脚へ蔦が絡み付き、その隙間では夜虫が細く鳴いている。
文明が終わった世界と、生き残った自然。
その境界線に、俺達は立っていた。
「戻れない場所を思い出す事だ」
言葉は静かに夜へ溶けていく。
俺の隣では、黒い三角柱がいつものように一定の高さを保って浮遊していた。
全長三十センチほど。
艶を抑えた黒い装甲には、まだ小さな雨粒がいくつも残っている。
風に揺られることもなく、微細な姿勢制御だけで水平を保ち続ける姿は、生き物というより、精密機械そのものだった。
その表面を一本の細い青白い光が、右から左へ静かに流れる。
演算開始。
質問を受けた時、必ず現れる癖だ。
もう何百回、何千回と見てきた光景。
それでも俺は、この瞬間が少し好きだった。
考えている。
そう見えるからだ。
もちろん、本当は違う。
膨大な検索。
優先順位の整理。
記録との照合。
推論。
人間なら「考える」と呼ぶ行為を、こいつは極めて高速な演算で行っているだけ。
それでも俺には、それが思考に見えてしまう。
「記録の再生ですか」
静かな電子音声が返ってきた。
感情はない。
抑揚も最小限。
それでも以前より柔らかく聞こえるのは、長年聞き続けてきた俺の耳が勝手に補正しているだけなのかもしれない。
「違うなぁ」
俺は苦笑しながら首を横へ振る。
濡れた前髪が額へ張り付き、指先でそれを払い上げた。
コートの襟元にもまだ雨粒が残っている。
袖口は少し重く、歩くたびに湿った布地が腕へ触れた。
「違う。間違い。では?」
質問は止まらない。
間違いを否定されても落ち込まない。
次の可能性を探す。
また違えば、その次。
昔からそうだった。
一つ答えれば、次の疑問が生まれる。
理由を話せば、その理由を知りたがる。
さらにその理由。
さらにその先。
どこまで掘れば終わるのか、本人にも分かっていない。
終点なんて最初から存在しない。
知りたい。
理解したい。
それだけで動き続けるAI。
それがΔ-3だった。
「戻れないっていう、その部分が重要なんだ」
夜風が二人の間を静かに吹き抜ける。
崩れたビル群の谷間を通り抜けた風は、錆びた看板を小さく軋ませながら荒野へ流れていく。
雲はゆっくりと形を変え、厚い雨雲の切れ間から星明かりが一つ、また一つと顔を覗かせ始めていた。
都市の光害が弱いこの場所だからこそ見える、本物の夜空。
昔は当たり前だった景色が、今では少し贅沢に思える。
三角柱は静かに浮かんだまま動かない。
いや、正確には動いている。
姿勢制御のために数ミリ単位で重心を補正し、風を打ち消し続けている。
人間の目ではほとんど分からないほど小さな動き。
その精密さが、かえって機械らしかった。
「理解不能です」
青白い光がゆっくりと一周する。
演算は終わった。
だが、答えには届かなかった。
そんな様子にも見える。
「だろうな」
俺は小さく笑う。
「戻れないなら価値は低いはずです。考える意味がありません」
迷いのない返答。
合理性だけを積み上げれば、その結論になる。
失われたものへ計算資源を使う意味はない。
未来へ使う方が効率的。
AIとしては、至極当然の判断だった。
「AIならそう判断するだろうな」
俺は夜空を見上げたまま答える。
風が吹く。
草むらが波のように揺れ、その擦れ合う音だけが静かな夜へ広がっていく。
「しかし人間は価値を感じる。ということですか?」
「ああ、そうだ」
三角柱の発光がゆっくりと明滅する。
先ほどよりも、ほんの少しだけ周期が長い。
演算負荷が高まっているのだろう。
理解できない概念ほど、こいつは時間を使う。
その姿はまるで、答えを探して黙り込む人間のようだった。




