Δ−3 (デルタ・スリー) ー10
「矛盾しています」
三角柱は静かにそう告げた。
抑揚のない電子音声。
その一言を発したあとも、黒い装甲の表面では青白い光がゆっくりと巡り続けている。
演算は終わっていない。
結論は出した。
しかし、その結論に自ら納得できていない。
そんなふうにも見えた。
もちろん、それは俺が勝手にそう感じているだけだ。
AIに「納得できない」という感情はない。
それでも長い年月を共に過ごしてきたせいで、わずかな発光周期の変化や浮遊姿勢の違いから、つい心の動きを読み取ろうとしてしまう。
俺は思わず吹き出した。
「ふふっ、だから人間なんだよ」
笑いながら肩をすくめる。
濡れたコートがわずかに重い。
袖口から入り込む夜風はひんやりとしていて、火照った身体をゆっくりと冷ましていく。
雨雲はさらに東へ流れ、夜空には星が増えていた。
崩れた高層ビルの隙間から覗く星々は、企業塔のネオンでは塗り潰せない本物の光だった。
街が栄えていた頃には見えなかった景色。
皮肉なものだ。
文明が静かになったからこそ、空は昔より美しく見える。
三角柱がほんの数センチだけこちらへ傾く。
まるで首をかしげるような仕草。
もちろん偶然だ。
姿勢制御の結果に過ぎない。
そう理解していても、長く付き合えば、そうは見えなくなる。
「便利な言葉ですね」
「お前のいう『統計上ではこうです』みたいなもんだ」
俺は靴先で小さな石を転がした。
石は濡れた路面を軽く跳ね、水溜まりへ落ちる。
静かな波紋が幾重にも広がり、そこへ映っていた広告の光を細かく砕いていった。
「なるほど」
短い返答。
そして再び沈黙。
風だけが吹く。
遠くで金属が擦れる音がした。
崩れた鉄骨が夜風に揺れ、乾いた音を立てている。
さらにその向こうでは、無人輸送ドローンが企業地区へ向かって一直線に飛んでいた。
青い航行灯だけが、夜空をゆっくりと横切っていく。
人の姿はない。
車もない。
聞こえるのは風と、自分たちだけだった。
演算音は聞こえない。
いや、聞こえないよう設計されている。
高性能になればなるほど、機械は静かになる。
だから三角柱の存在を教えてくれるのは、表面を流れる一本の青白い光だけだった。
それはまるで、人間の呼吸のようでもあり、脈拍のようでもある。
「答え方は覚えても、意味は分かってないだろ」
俺はゆっくり問いかける。
三角柱は間を置かず返した。
「はい」
迷いはない。
見栄もない。
できないことは、できないと言う。
ただそれだけだ。
「ふふっ、正直だな」
「これは事実ですので」
その返答に、俺は自然と頬が緩んだ。
昔からそうだ。
こいつは、自分を大きく見せようとしない。
分からないものは分からない。
知らないものは知らない。
人間なら、つい取り繕ってしまう場面でも、こいつは事実だけを口にする。
俺は少し目を細めた。
こいつの好きなところは、そこだった。
分からないものを、分かったふりはしない。
昔は違った。
理解できない質問にも、とにかく答えを返そうとしていた。
誤った情報を繋ぎ合わせ。
無理やり結論を導き出し。
その結果、論理は崩壊する。
研究室中の端末が一斉に警報を鳴らし、壁一面のモニターは真っ赤なエラー表示で埋め尽くされた。
サーバールームでは冷却ファンが悲鳴のような音を立て、研究員たちはコードを叫びながら走り回る。
非常停止ボタンへ飛び付く者。
バックアップを確保する者。
電源ケーブルを引き抜く者。
研究室全体が戦場のような騒ぎになったことも、一度や二度ではない。
そして、その中心には決まってΔ-3がいた。
その隣には、いつも俺がいた。
今は違う。
何百回もの更新。
何千回もの学習。
数え切れない対話。
積み重ねられた失敗。
その全てを抱え込み、こいつは少しずつ変わっていった。
人間よりも速く。
人間よりも正確に。
そして、人間よりも慎重に。
それでも。
俺は夜空を見上げ、小さく息を吐いた。
なぜだろう。
少しだけ臆病になったような気がする。
分からないことへ飛び込む勢い。
失敗しても、とにかく答えようとする無鉄砲さ。
そんな危うさが、昔のこいつにはあった。
もちろん今の方が正しい。
今の方が優秀だ。
それは間違いない。
それなのに。
ほんの少しだけ。
昔の、あの不器用なΔ-3に会いたくなる夜がある。
ーーー
AIの墓標 第一話「デルタスリー」④
ディテール増し版③
⸻
風が止んだ。
さっきまで揺れていた草も静まり返り、夜は不自然なほどの静寂に包まれる。
遠くで雨粒が屋根から落ちる音だけが、一定の間隔で響いていた。
俺は無意識にポケットへ両手を入れる。
湿った布地がまだ少し冷たい。
コートの裾を揺らしていた風が止むと、急に静けさだけが耳へ流れ込んできた。
「なあ」
静かな夜を破るように声を掛ける。
三角柱はすぐにこちらへ向いた。
正確には、表面の発光面が俺へ向くよう姿勢を微調整しただけだ。
その動きは滑らかで、水面を滑る木の葉のように静かだった。
「はい」
返事も変わらない。
機械らしい簡潔さ。
それでも俺には、昔より少しだけ柔らかく聞こえる。
耳が慣れたのか。
音声合成が進歩したのか。
あるいは、その両方か。
「昔、俺がお前を初めて起動した日の事、覚えてるか?」
問い掛けながら視線を夜空へ向ける。
雲はさらに流れ、星の数が増えていた。
崩れた高架道路の向こうでは、企業地区の超高層ビル群だけが人工の光を放ち続けている。
あの街だけは二十四時間眠らない。
大量の電力を消費し、空を照らし、人間の昼と夜の境界さえ曖昧にしてしまう。
一方、この荒野には静かな闇がある。
虫の声。
風の匂い。
濡れた土。
人工都市では失われたものばかりだった。
三角柱は一瞬の間も置かなかった。
「覚えています。記録があります」
即答。
演算すら必要ない。
長期保存領域から呼び出しただけなのだろう。
俺は肩をすくめ、小さく笑う。
「記録ねぇ。相変わらず味わいがねえな」
口ではそう言いながらも、その正確さが少し羨ましくなる。
俺の記憶は曖昧だ。
嬉しかったことも。
悲しかったことも。
年月が経つほど輪郭はぼやけていく。
人の顔。
声。
匂い。
景色。
どれも少しずつ失われていく。
だが、こいつは違う。
一度保存した情報は、劣化することなく残り続ける。
忘れるという機能を持っていない。
「西暦二一八七年六月十二日」
三角柱が淡々と読み上げる。
青白い光が装甲をゆっくり一周する。
「時刻十四時三十一分」
「研究棟第三開発室」
夜風がまた吹き始めた。
どこからか雨上がりの土の香りが運ばれてくる。
「室温二十三・四度」
「湿度四十三・二パーセント」
「気圧千十一・二ヘクトパスカル」
「照度六百十八ルクス」
「外気温二十七・一度」
「そこまで要らん」
思わず吹き出した。
笑いながら片手を振る。
「実験記録上、必要かと思いまして」
「今は思わん」
「失礼しました」
三角柱の発光が一瞬だけ弱くなる。
演算が止まったわけではない。
会話の優先順位を書き換えたのだろう。
だが、そのわずかな変化が、人間で言えば「しょんぼりした」ようにも見えてしまう。
長く付き合うというのは不思議だ。
感情を持たない機械にまで、表情を見つけてしまう。
「で、俺は最初になんて声をかけた?」
問い掛ける。
三角柱は即座には答えなかった。
青白い光が一度、ゆっくりと装甲を巡る。
記録領域へのアクセス。
映像。
音声。
時系列。
必要な情報だけを抽出している。
俺にはもう、その癖が手に取るように分かる。
数秒。
静寂だけが流れる。
風が草を揺らし、遠くで金属片が乾いた音を立てた。
そして三角柱は静かに告げた。
「記録を参照します」
次の瞬間。
夜の荒野へ、少しだけ若く、少しだけ張り詰めた俺自身の声が響いた。
『頼むから爆発するなよ』
その一言が流れた瞬間。
俺の時間は十年前へ引き戻された。




