Δ−3 (デルタ・スリー) ー7
俺は苦笑した。
「違う」
ゆっくりと首を横に振る。
「そういうことじゃない」
三角柱は静かに浮かび続けている。
黒い装甲を伝う雨粒は、
機体の縁を滑り落ち、
小さな音も立てず地面へ吸い込まれていった。
「昔と、同じです。同一個体です」
「違うんだよ」
俺は三角柱へ視線を向けた。
いつもと変わらない姿。
三十センチほどの黒い三角柱。
浮遊高度も変わらない。
発光パターンも正常。
ハードウェアとしては、
確かに同じΔ-3だった。
「そうじゃないんだよ」
「理解不能です」
俺はゆっくりと、言い聞かせるように言う。
「Ver1もな」
あの頃を思い返すように、
一つひとつ言葉を選びながら。
「Ver3も」
「Ver20もだ」
「全部居ない」
三角柱は静かに答える。
「バックアップはクラウド上に存在します」
「ああ、そうだろうさ」
俺は笑った。
苦笑というより、諦めに近い笑みだった。
「そういう話じゃない」
夜風が二人の間を通り抜ける。
濡れたコートの裾が揺れ、
焚き火跡の灰が静かに舞った。
三角柱は数秒間沈黙する。
表面を流れる青白い光だけが、
内部で膨大な演算が行われていることを
周りに教えていた。
「では、何を指しているのですか?」
「ま、お前は成長したって事だな」
「成長」
「人間も同じだ」
遠くで雷が鳴った。
黒い雲の向こうで、わずかに空が白く光る。
その光は一瞬だけ荒野を照らし、
崩れた高架道路の骨組みを白く浮かび上がらせた。
「十年前の俺はもう居ない」
俺は静かに続ける。
「二十年前の俺も居ない」
少しだけ笑う。
「でも確かに存在した」
三角柱は迷わず答える。
「データベースに、記録が残っています」
「ああ」
俺は静かに頷く。
「だから時々会いたくなる」
その言葉を口にした瞬間、
自分でも少し驚いた。
口にするまで、
それほど強く思っているとは気づいていなかった。
三角柱はすぐに答えた。
「まったくもって非合理的です」
表面の光が一定の速度で流れる。
機械らしい、感情のない口調だった。
「今のほうが格段に──」
「ああ」
俺は途中で遮った。
「知ってる」
「それに、過去は戻りません」
「知ってるよ」
「利益もありません」
「知ってるさ」
三角柱は一瞬だけ次の言葉を選んでいるのか、
沈黙した。
そして演算負荷が上がったのか、
青白い光がゆっくりと明滅を繰り返す。
「それでもですか」
俺は迷わず頷いた。
「ああ」
そして、小さく笑う。
「それでもだ」
風が吹く。
夜の静寂が二人を包み込む。
懐かしむという行為を。
こいつはまだ理解できない。
失ったから価値がある。
戻らないから愛おしい。
そういう感覚だ。
数字にはならない。
保存容量にも入らない。
どれだけ演算能力が上がっても、
単純なデータだけでは届かない場所がある。
だから多分。
こいつが一番苦手な分野なんだろう。
三角柱は静かに浮かんだまま、何も言わない。
ただ、青白い光だけが、
ゆっくりと夜の闇をなぞっていた。




