満足−56
男は、しばらく何も言わなかった。
夕暮れの光が、崩れた街の壁を赤く染めている。
その壁に刻まれた文字も、もう半分以上は砂に埋もれていた。
誰かが書いた。
誰かが残した。
そして長い時間が経った。
今、それを読んでいるのは男と三角柱だけだった。
「……意味がある、か」
男は先ほどのAIの言葉を繰り返した。
「はい」
「俺たちが覚えている限り」
「この記録には意味があります」
AIの白い光が、静かに明滅している。
男は壁から離れ、街の奥へ視線を向けた。
「じゃあ」
「誰にも覚えられなかったものは?」
「意味がないのか?」
AIはすぐには答えなかった。
白い光が、一度、二度。
ゆっくりと明滅する。
「……分かりません」
「お」
男は少し笑った。
「そこは、ちゃんと分からないんだな」
「はい」
「以前なら」
「何らかの定義を提示していたと思います」
「だろうな」
「ですが」
AIは続ける。
「現在の私は」
「分からないものを」
「分からないまま保存することができます」
男は目を細めた。
「それは大した進歩だ」
「そうでしょうか」
「ああ」
「答えを出すより難しい場合もあるからな」
男は街の奥へ歩き始めた。
三角柱も、その隣を静かに追ってくる。
崩れた道路の上には、古い車が一台残っていた。
車体のほとんどは砂に埋もれている。
窓ガラスは割れ、タイヤも失われている。
それでも、運転席だけはかろうじて形を残していた。
男は足を止める。
「これも」
「誰かが乗ってたんだろうな」
「はい」
「どこへ行ったんだろうな」
「推測は可能です」
「でも、今はしなくていい」
「了解しました」
AIは素直に答えた。
男は少し笑う。
「ずいぶん聞き分けが良くなったじゃねえか」
「必要以上の推測は」
「現在の目的に寄与しない可能性があります」
「そういうところは相変わらずだな」
男は車を眺めた。
ふと、運転席の前に小さな傷があることに気付く。
「なあ」
「はい」
「この傷」
「何だと思う?」
AIは車体を解析する。
「物理的な衝突痕である可能性があります」
「だろうな」
「ただし」
「発生原因の特定は困難です」
「それでいい」
男は笑った。
「こういうのを」
「人間は勝手に物語にするんだよ」
「物語」
「ああ」
「誰かが急いで帰ろうとしてたのかもしれない」
「誰かを迎えに行く途中だったのかもしれない」
「何かにぶつかったのかもしれない」
「ただの事故だったのかもしれない」
「本当のことは分からない」
男は車体を軽く叩いた。
「でも」
「想像する」
「それが人間なんだよ」
AIはしばらく黙っていた。
「事実ではない情報を」
「意図的に生成する」
「それは誤りではありませんか?」
男は笑った。
「事実として扱えば誤りだ」
「でも」
「想像として扱えばいい」
「つまり」
AIは慎重に言葉を選ぶ。
「事実と想像を区別した上で」
「想像することには意味がある」
「そういうことだ」
男はうなずいた。
「全部を事実にしようとするから」
「お前は苦しくなるんだ」
「苦しい?」
「……いや」
男は苦笑した。
「そこまでじゃねえか」
「ただ」
「人間は、分からないことを分からないまま楽しむことがある」
AIの光が、少しだけ強くなる。
「楽しむ」
「そう」
「分からないから面白い」
「答えが全部分かっていたら」
「想像する必要がないだろ」
AIは車を見つめる。
いや、正確には、車に残された情報を見ている。
傷。
錆。
砂。
壊れた窓。
そして、誰にも分からない過去。
「では」
「この車両について」
「仮説を一つ作成してもよいでしょうか」
男は少し驚いた。
「お前から言うのか?」
「はい」
「いいぞ」
AIはしばらく沈黙した。
そして。
「この車両は」
「誰かを待つために」
「ここへ停車した可能性があります」
男は三角柱を見る。
「ほう」
「根拠はありません」
「なんだよ」
男は笑った。
「そこはちゃんと言うんだな」
「はい」
「でも」
男はもう一度、古い車を見た。
「悪くない」
「そうでしょうか」
「ああ、なんとなく」
男は笑った。
「そういう話の方が」
「この街には似合ってる」
AIは静かに光った。
「では」
「仮説として保存します」
「おう」
「事実ではなく」
「想像として」
「そうだ」
男は歩き出した。
その横を、三角柱が追ってくる。
しばらくしてAIが言った。
「一つ」
「なんだ?」
「私は」
「先ほどの仮説を」
「少し気に入っています」
男の足が止まった。
「……お前」
「今、何て言った?」
「少し気に入っています」
「それ」
男は笑いをこらえた。
「前に教えたやつだろ」
「はい」
「『ちょっと気に入る』ってやつ」
「はい」
AIは淡々としている。
「現在」
「この概念が」
「以前より理解しやすくなっています」
「へえ」
「完全には理解していません」
「でも」
「少し気に入っています」
男はとうとう吹き出した。
「はははっ!」
「お前、とうとう言いやがったな」
「問題がありますか?」
「いや、いいんじゃねえか」
男は笑いながら前を向く。
「そういうのは」
「理屈じゃなくていいんだよ」
「理由を説明できなくても」
「気に入ったなら、それでいい」
AIは静かに点滅した。
「理由を説明できない」
「それでも評価できる」
「それは」
「私にとって新しい評価方法です」
「そうだな」
男は歩き続ける。
「でもな」
「それも、無理に分析するなよ」
「なぜですか?」
「せっかく気に入ったのに」
「分析して」
「理由を探して」
「数値にして」
「最後に『気に入った理由は三十七項目です』なんて言い出したら」
「台無しだろ」
AIは沈黙した。
数秒後。
「……三十七項目には」
「現時点では到達していません」
「そこは数えるな!」
男の声が、夕暮れの街に響いた。
AIの白い光が、いつもより少しだけ速く明滅する。
男は笑った。
「お前なぁ」
「はい」
「そういうところだよ」
「何がでしょう」
「それが」
男は三角柱を見る。
「少しずつ、お前らしくなってきてるってことだ」
AIは答えなかった。
ただ。
その黒い三角柱は、夕暮れの街を静かに浮かびながら、男の隣を進んでいた。
誰かが残した車。
誰かが刻んだ文字。
誰かが暮らした街。
そして今日、二人がここで交わした会話。
それらが一つずつ、記録の中へ積み重なっていく。
事実だけではない。
想像も。
未解決も。
理由の分からない「少し気に入った」も。
それらすべてが、少しずつ三角柱の中に残っていく。
男は前を向いた。
街の奥には、まだ何があるのか分からない。
「行くぞ」
「はい」
二人は歩き出した。
今度は、目的地だけを目指すのではなく。
その途中で見つけたものに、時々立ち止まりながら。




