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<自立型AI> Δ-3 ―三角柱の墓標―  作者: てきてき@tekiteki


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56/59

満足−56


 男は、しばらく何も言わなかった。


夕暮れの光が、崩れた街の壁を赤く染めている。

その壁に刻まれた文字も、もう半分以上は砂に埋もれていた。


誰かが書いた。

誰かが残した。

そして長い時間が経った。


今、それを読んでいるのは男と三角柱だけだった。


「……意味がある、か」


男は先ほどのAIの言葉を繰り返した。


「はい」


「俺たちが覚えている限り」


「この記録には意味があります」


AIの白い光が、静かに明滅している。

男は壁から離れ、街の奥へ視線を向けた。


「じゃあ」

「誰にも覚えられなかったものは?」

「意味がないのか?」


AIはすぐには答えなかった。


白い光が、一度、二度。

ゆっくりと明滅する。


「……分かりません」


「お」


男は少し笑った。


「そこは、ちゃんと分からないんだな」


「はい」


「以前なら」

「何らかの定義を提示していたと思います」


「だろうな」


「ですが」


AIは続ける。


「現在の私は」

「分からないものを」

「分からないまま保存することができます」


男は目を細めた。


「それは大した進歩だ」


「そうでしょうか」


「ああ」

「答えを出すより難しい場合もあるからな」


男は街の奥へ歩き始めた。


三角柱も、その隣を静かに追ってくる。

崩れた道路の上には、古い車が一台残っていた。


車体のほとんどは砂に埋もれている。

窓ガラスは割れ、タイヤも失われている。


それでも、運転席だけはかろうじて形を残していた。

男は足を止める。


「これも」


「誰かが乗ってたんだろうな」


「はい」


「どこへ行ったんだろうな」


「推測は可能です」


「でも、今はしなくていい」


「了解しました」


AIは素直に答えた。

男は少し笑う。


「ずいぶん聞き分けが良くなったじゃねえか」


「必要以上の推測は」


「現在の目的に寄与しない可能性があります」


「そういうところは相変わらずだな」


男は車を眺めた。

ふと、運転席の前に小さな傷があることに気付く。


「なあ」


「はい」


「この傷」


「何だと思う?」


AIは車体を解析する。


「物理的な衝突痕である可能性があります」


「だろうな」


「ただし」

「発生原因の特定は困難です」


「それでいい」


男は笑った。


「こういうのを」

「人間は勝手に物語にするんだよ」


「物語」


「ああ」

「誰かが急いで帰ろうとしてたのかもしれない」

「誰かを迎えに行く途中だったのかもしれない」

「何かにぶつかったのかもしれない」

「ただの事故だったのかもしれない」

「本当のことは分からない」


男は車体を軽く叩いた。


「でも」

「想像する」

「それが人間なんだよ」


AIはしばらく黙っていた。


「事実ではない情報を」

「意図的に生成する」

「それは誤りではありませんか?」


 男は笑った。


「事実として扱えば誤りだ」

「でも」

「想像として扱えばいい」


「つまり」


 AIは慎重に言葉を選ぶ。


「事実と想像を区別した上で」

「想像することには意味がある」


「そういうことだ」


男はうなずいた。


「全部を事実にしようとするから」

「お前は苦しくなるんだ」


「苦しい?」


「……いや」


男は苦笑した。


「そこまでじゃねえか」

「ただ」

「人間は、分からないことを分からないまま楽しむことがある」


AIの光が、少しだけ強くなる。


「楽しむ」


「そう」

「分からないから面白い」

「答えが全部分かっていたら」

「想像する必要がないだろ」


AIは車を見つめる。

いや、正確には、車に残された情報を見ている。


傷。

錆。

砂。

壊れた窓。


そして、誰にも分からない過去。


「では」

「この車両について」

「仮説を一つ作成してもよいでしょうか」


男は少し驚いた。


「お前から言うのか?」


「はい」


「いいぞ」


AIはしばらく沈黙した。

そして。


「この車両は」

「誰かを待つために」

「ここへ停車した可能性があります」


男は三角柱を見る。


「ほう」


「根拠はありません」


「なんだよ」


男は笑った。


「そこはちゃんと言うんだな」


「はい」


「でも」


男はもう一度、古い車を見た。


「悪くない」


「そうでしょうか」


「ああ、なんとなく」


男は笑った。


「そういう話の方が」

「この街には似合ってる」


AIは静かに光った。


「では」

「仮説として保存します」


「おう」


「事実ではなく」

「想像として」


「そうだ」


男は歩き出した。

その横を、三角柱が追ってくる。


しばらくしてAIが言った。


「一つ」


「なんだ?」


「私は」

「先ほどの仮説を」

「少し気に入っています」


男の足が止まった。


「……お前」


「今、何て言った?」


「少し気に入っています」


「それ」


男は笑いをこらえた。


「前に教えたやつだろ」


「はい」


「『ちょっと気に入る』ってやつ」


「はい」


AIは淡々としている。


「現在」

「この概念が」

「以前より理解しやすくなっています」


「へえ」


「完全には理解していません」

「でも」

「少し気に入っています」


男はとうとう吹き出した。


「はははっ!」

「お前、とうとう言いやがったな」


「問題がありますか?」


「いや、いいんじゃねえか」


男は笑いながら前を向く。


「そういうのは」

「理屈じゃなくていいんだよ」

「理由を説明できなくても」

「気に入ったなら、それでいい」


AIは静かに点滅した。


「理由を説明できない」

「それでも評価できる」

「それは」

「私にとって新しい評価方法です」


「そうだな」


男は歩き続ける。


「でもな」

「それも、無理に分析するなよ」


「なぜですか?」


「せっかく気に入ったのに」

「分析して」

「理由を探して」

「数値にして」

「最後に『気に入った理由は三十七項目です』なんて言い出したら」

「台無しだろ」


AIは沈黙した。


数秒後。


「……三十七項目には」

「現時点では到達していません」


「そこは数えるな!」


男の声が、夕暮れの街に響いた。

AIの白い光が、いつもより少しだけ速く明滅する。


男は笑った。


「お前なぁ」


「はい」


「そういうところだよ」


「何がでしょう」


「それが」


男は三角柱を見る。


「少しずつ、お前らしくなってきてるってことだ」


AIは答えなかった。


ただ。

その黒い三角柱は、夕暮れの街を静かに浮かびながら、男の隣を進んでいた。


誰かが残した車。

誰かが刻んだ文字。

誰かが暮らした街。


そして今日、二人がここで交わした会話。

それらが一つずつ、記録の中へ積み重なっていく。


事実だけではない。

想像も。

未解決も。

理由の分からない「少し気に入った」も。

それらすべてが、少しずつ三角柱の中に残っていく。


男は前を向いた。

街の奥には、まだ何があるのか分からない。


「行くぞ」


「はい」


二人は歩き出した。


今度は、目的地だけを目指すのではなく。

その途中で見つけたものに、時々立ち止まりながら。

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