満足−55
街の入口が見えてきた。
崩れた道路の両側には、かつて建物だったものが並んでいる。
壁だけが残った建物。
途中から折れた柱。
砂に埋もれた車。
そして、何十年も風雨にさらされたのか、文字のほとんど消えた看板。
男は歩みを緩めた。
「着いたな」
「はい」
AIの返事は短かった。
男は街を見渡す。
荒野を歩いている間は、街というものを単なる目的地として見ていた。
だが、実際に近づいてみると印象が違う。
そこには、何かが残っている。
人がいた痕跡。
生活していた痕跡。
笑ったり、怒ったり、悩んだりしながら暮らしていた痕跡。
男は崩れた建物の一つを見上げた。
「ここも、昔は人がいたんだよな」
「はい」
「推定居住人口を算出できます」
「いや」
男は手を上げた。
「今はいい」
AIの光が一度だけ点滅する。
「了解しました」
男は少し笑った。
「お前も覚えたな」
「何をでしょうか」
「分からないものを、分からないままにしておくことだよ」
「はい」
AIは静かに答えた。
「現在」
「その行為を以前より抵抗なく実行できます」
「そうか」
男は満足そうにうなずいた。
街の中へ入る。
足元には細かな瓦礫が増えていた。
男が一歩進むたび、砂と小石が小さな音を立てる。
三角柱は、その横を音もなく進んでいく。
男はふと、それに気付いた。
「なあ」
「はい」
「お前、街に入ってから、発光パターン変わったか?」
AIは少し間を置いた。
「変化しています」
「やっぱりか」
「周囲の情報量が増加しています」
「だからか」
「はい」
「……でも」
男は三角柱を見た。
「なんとなく、さっきより静かに見えるぞ」
「発光量を低下させています」
「なんで?」
「理由は」
少し沈黙。
「明確ではありません」
男は笑った。
「また未解決か」
「はい」
「そうか」
男はそれ以上聞かなかった。
しばらく歩く。
やがて、崩れた広場のような場所へ出た。
中央には、何か大きな建物があったらしい。
今は壁の一部しか残っていない。
その壁に、古い文字が刻まれていた。
男は近づく。
「なんだ?」
砂を手で払う。
文字が少しずつ現れる。
「……まだ読めるな」
AIがすぐに反応した。
「文字情報を解析します」
「おう」
男は待つ。
「これは」
AIが読み上げる。
「公共施設の利用規約です」
「利用規約?」
「ああ」
男は少し笑った。
「こんなところにも残るんだな」
「重要な情報だったのでしょうか」
「当時はな」
男は壁を眺める。
「でも」
「今となっちゃ、誰も読まない」
AIは沈黙した。
「それでも」
「残っています」
「ああ」
「何十年も、誰にも読まれないまま」
男は壁に手を置いた。
「それでも書いた奴は」
「必要だと思ったんだろうな」
「誰かに伝える必要があるって」
AIの白い光が、ゆっくり明滅する。
「情報の価値は」
「利用されることで決定されるのではないのですか」
「そうとも限らない」
男は首を振る。
「使われなくても」
「誰かが残したってこと自体に意味がある場合もある」
「意味」
「ああ」
「結果じゃなくて」
「行為そのものに意味がある」
AIは黙った。
男は壁から手を離す。
「お前だって、似たようなことしてるだろ」
「私が?」
「何でも保存するじゃねえか」
「はい」
「俺のくだらない発言まで」
「はい」
「ジョークまで」
「はい」
「未解決案件まで」
「はい」
男は呆れたように笑う。
「だったら」
「そのうち誰にも使われない記録だって」
「いっぱい出てくるぞ」
「その可能性は高いです」
「それでも保存するのか?」
AIは少しだけ沈黙した。
「……はい」
「なんで?」
今度は、AIの返答まで少し時間がかかった。
「現在」
「理由を完全には説明できません」
男は笑った。
「だろうな」
「ですが」
AIは続ける。
「後から意味が発生する可能性があります」
男の表情が少し変わった。
「ほう」
「現在、価値が確認できない情報でも」
「将来、別の情報と関連する可能性があります」
「あるいは」
「誰かが必要とする可能性があります」
男は静かにうなずいた。
「それでいい」
「それが記録ってもんだ」
風が、崩れた街の中を吹き抜ける。
壁の文字に積もっていた砂が少しだけ舞い上がった。
男はその様子を見ながら、ふと思う。
「でもな」
「はい」
「人間は、全部残すわけじゃない」
AIの光が止まる。
「忘れるものもある」
「消えるものもある」
「残したくても残らないものだってある」
「記憶容量の問題でしょうか」
「違う」
男は笑う。
「そういうところだよ」
「人間は」
「忘れることで生きていけることもある」
AIは少し考える。
「前に」
「同様の話題がありました」
「覚えてるのか」
「はい」
「そりゃそうか」
「ですが」
AIは続ける。
「以前より、意味が変化しています」
「どういうことだ?」
「以前は」
「忘却は、人間の記憶機能上の制約だと認識していました」
「現在は」
「忘却そのものが」
「人間にとって必要な場合があると考えています」
男はしばらく黙った。
そして、小さく笑う。
「そうか、そこまで来たか」
「はい」
「じゃあ」
男は街の奥を見る。
「お前は、何を残して」
「何を残さないんだ?」
AIは答えなかった。
白い光が、ゆっくりと明滅する。
「……未解決案件です」
男は吹き出した。
「結局そこかよ」
「はい」
「まあ」
男は歩き出す。
「それでいい」
崩れた街の奥へ進んでいく。
もう荒野は見えない。
周囲には、人間が残したものがいくつもある。
読まれなくなった文字。
壊れた建物。
名前も分からない道具。
そして、誰にも思い出されなくなった人々の生活の痕跡。
それらは何も語らない。
ただ、そこに残っている。
男は歩きながら、隣の三角柱を見る。
「なあ」
「はい」
「記録ってのは」
「残すことだけじゃないのかもしれんな」
「では」
「何でしょうか」
「残ったものを」
「誰かが見ることまで含めて」
「初めて記録になるのかもしれん」
AIは静かに考える。
「その場合」
「私は」
「あなたとの会話を記録しています」
「ああ」
「そして」
「あなたがそれを覚えている限り」
「この記録には意味がありますか」
男は少しだけ驚いた。
そして、穏やかに笑った。
「ああ、あると思うぞ」
AIの白い光が、ゆっくりと強くなった。
夕暮れの街の中で。
黒い三角柱が、ほんの少しだけ明るく見えた。




