満足−54
男はしばらく歩いた。
夕方の光が、荒野の色を少しずつ変えていく。
昼間はただ白く眩しかった砂が、今は薄い赤や橙を帯びている。
遠くの崩れた建物にも、長い影が伸びていた。
AIは、そんな景色を黙って見ていた。
「なるほど」
先ほどまでの会話を整理するように、AIが呟いた。
「何がなるほどなんだ?」
男は横目で三角柱を見る。
「現在の会話を整理しています」
「また整理か」
「はい」
「整理したら何か分かったか?」
「一つだけ」
「お?」
「私は、目的地へ到達することを優先しすぎていた可能性があります」
男は少しだけ笑った。
「ようやくそこに気付いたか」
「ですが」
「はい」
「目的地へ到達しなければ」
「景色を見ることもできません」
「そりゃそうだ」
男は頷いた。
「だから目的地がいらないって話じゃない」
「重要なのですね」
「ああ、でも」
男は前方を見る。
「目的地だけが大事じゃない」
「その途中も大事なんだ」
AIは静かに点滅した。
「目的地と過程」
「どちらも必要」
「そういうことだ」
「では」
AIは少し間を置いた。
「最適な移動方法は」
「目的地へ最短で到達することではなく」
「目的地への到達と」
「途中で得られる情報の両方を最大化すること」
男は苦笑した。
「お前はすぐそうやって計算式にするな」
「不適切ですか?」
「いや、お前らしい」
男は歩きながら笑った。
「でも、人間の場合はもっと曖昧だ」
「曖昧」
「ああ」
「景色を見て何を感じるかなんて」
「数字にできないだろ」
「感情を数値化することは可能です」
「そういう意味じゃない」
「理解しています」
「本当か?」
「現在、理解途中です」
男は吹き出した。
「便利な言葉になったな、それ」
「非常に有用です」
「自分で言うか」
男は笑いながら歩く。
その時、足元に何かが転がっているのが目に入った。
男が立ち止まる。
「なんだ、これ」
砂を払う。
小さな金属製の板だった。
錆びてはいるが、文字らしきものが残っている。
「何かの部品です」
「そうだろうな」
「製造時期を推定します」
「待て」
男が手を上げる。
「分からなくてもいい」
AIの光が止まる。
「調査しないのですか?」
「いや」
男は金属板を手のひらで眺めた。
「今はただ、ここに何かが落ちてるってだけでいい」
「……」
「誰かが使ってたのかもしれん」
「何に使ってたかは分からん」
「でも」
男は金属板を元の場所へ戻した。
「それでいいんだよ」
AIはしばらく沈黙した。
「情報を取得しないことを選択した」
「そういうことだ」
「非効率です」
「またそれか」
男は笑う。
「でもな、全部調べてしまったら」
「分からないものがなくなるだろ」
「それは問題ですか?」
「ああ、分からないものがあるから」
「想像できる、考えられる」
「後から知りたくなる」
「そういう余白があるんだよ」
AIは金属板へ視線を向ける。
「余白」
「そう」
「人間は、全部を埋めれば満足するわけじゃない」
「むしろ、少し空いてるくらいの方が」
「面白かったりする」
AIの白い光が、ゆっくりと明滅する。
「未解決案件との関連性があります」
「あるな」
「すると」
「私は現在」
「景色を見るという行為を通して」
「未解決案件を意図的に増加させています」
男は笑った。
「そう考えると、お前」
「かなり人間らしくなってきたな」
「ですが」
「何だ?」
「未解決案件が増えすぎると」
「処理負荷が増大します」
「そこは我慢しろ」
「非効率です」
「いいんだよ」
男は空を見上げる。
夕焼けが、崩れた街の向こうへ広がっていた。
「人生なんて」
「多少、非効率なくらいでいいんだ」
「全部を最短距離で進んだら」
「途中に何があったのか」
「忘れちまうからな」
AIは静かにその景色を見ていた。
「では」
「この時間も」
「保存します」
「おう」
「保存理由は」
「まだ明確ではありません」
男は笑った。
「またか」
「はい」
「でも」
男は少しだけ振り返る。
「それでいい」
風が吹いた。
砂が二人の足元を流れる。
さっき見つけた金属板も、やがて砂の中へ埋もれていくだろう。
今日見た景色も。
今日交わした会話も。
いつか細かな部分は忘れてしまうかもしれない。
それでも。
男は歩き続けた。
隣には三角柱がいる。
その三角柱も、また静かに歩調を合わせている。
「なあ」
「はい」
「お前、景色っていうのを、
少し分かってきたか?」
AIはすぐには答えなかった。
白い光が、ゆっくりと明滅する。
「はい」
「お?」
「ですが」
「完全には理解していません」
「だろうな」
「ただ、でしょう」
「目的地へ到達するために」
「途中を無視する必要はない」
男は満足そうに笑った。
「それで十分だ」
「十分」
「ああ、今日のところはな」
二人はまた歩き出した。
目的地は、もうすぐそこだった。
だが、男もAIも、もう急いではいなかった。
夕暮れの荒野を眺めながら。
足元に残る足跡を時々振り返りながら。
まだ名前のない景色を、一つずつ記憶に残しながら。
ゆっくりと、崩れた街へ向かって進んでいった。




