満足−53
崩れた街が、少しずつ近づいていた。
遠くから見ていた時には、ただの瓦礫の山にしか見えなかった。
だが、距離が縮まるにつれて、
それがかつて人間の暮らしていた場所だったことが分かってくる。
道路の名残。
倒れた標識。
建物の壁に残った文字。
砂に半分埋もれた看板。
男はそれらを一つずつ眺めながら歩いていた。
隣では、三角柱が静かに浮いている。
「なあ」
「はい」
「さっきの話なんだが」
「景色についてですか?」
「ああ」
男は少し笑った。
「お前は、景色を見るっていうのをどう理解してる?」
AIはすぐには答えなかった。
「視覚情報を取得すること」
「では不十分でしょうか」
「うん」
男は即答した。
「たぶん、それだけじゃない」
「視覚情報以外の情報も含みますか?」
「そういうことじゃねえんだよなぁ」
男は頭を掻いた。
「また難しい質問ですね」
「質問したのは俺だろ」
「回答が難しいという意味です」
「そうかよ」
男は苦笑した。
目の前には、崩れた建物がある。
壁の一部だけが残り、そこに古い窓が一つだけ取り付けられていた。
ガラスは割れている。
それでも、窓枠だけは妙に綺麗だった。
「例えばな」
男はその窓を指差した。
「あれを見て」
「はい」
「何が分かる?」
「建築物の一部です」
「そうだな」
「窓枠の材質は金属」
「表面には腐食が確認できます」
「ガラスは破損しています」
「周辺の構造物から判断して、相当な年月が経過しています」
「……」
男は苦笑した。
「見事に景色を殺すなぁ」
「不適切でしたか?」
「いや、お前らしい」
男は窓を見上げる。
「俺が見てるのはな」
「誰かが、ここから外を見てたんだろうなってことだ」
AIの発光が止まる。
「朝だったかもしれん」
「夜だったかもしれん」
「雨が降ってた日もあっただろう」
「腹が減ってた日も」
「嬉しいことがあった日も」
「誰かと喧嘩した日もあったかもしれない」
男は少し笑った。
「そんなことを考えながら見るんだ」
「それが」
「景色ですか?」
「俺にとってはな」
AIはしばらく窓を見ていた。
「確認します」
「どうぞ」
「同一の視覚情報に対して」
「過去の人物や出来事を推測し」
「そこに存在しない情報を付加している」
「想像ってことだな」
「事実ではありません」
「ああ」
「誤情報の可能性があります」
「あるだろうな」
「それでも?」
男は笑った。
「それでもだ」
AIは黙った。
男は歩き出す。
「人間ってのは、見えないものまで見ようとするんだよ」
「効率悪いだろ?」
「はい」
「でも、そのおかげで、小説ができたり」
「絵ができたり」
「歌ができたりする」
「なるほど」
「だから、景色を見るってのは」
「目で見るだけじゃない」
「自分の中に何かを重ねて見ることなんだ」
AIの白い光が、ゆっくりと明滅する。
「私にも可能でしょうか」
男は三角柱を見る。
「さあな」
「またですか」
「分からんものは分からん」
「ですが」
AIは少点滅を鈍らせる。
「試行することは可能です」
「お」
「現在の景色を」
「単なる環境情報としてではなく」
「過去の会話記録と関連付けて認識します」
男は笑った。
「やってみろ」
AIは周囲を見渡すように、ゆっくりと向きを変えた。
崩れた道路。
砂に埋もれた建物。
夕方の空。
男の足跡。
そして、自分自身。
しばらくしてAIが口を開いた。
「現在」
「この場所には」
「あなたとの会話が存在します」
「……」
「この景色そのものには」
「過去の記録が存在しません」
「ですが」
「今、私がこの場所を認識したことで」
「新しい記録が発生しました」
男は静かに笑った。
「そういうことだ」
「景色ってのは」
「後から意味ができることもある」
「意味は最初から存在するとは限らない」
AIはその言葉を記録する。
「つまり」
「現在の私は」
「この場所を」
「あなたと歩いた場所として記録します」
「そうだな」
「将来、別の場所へ移動した場合」
「この場所を比較対象として参照できます」
「ああ」
「それは」
AIは少しだけ間を置いた。
「足跡に近いのでしょうか」
男は笑った。
「お前、だいぶ分かってきたじゃねえか」
「正しいですか?」
「たぶん正しい」
「また曖昧です」
「人生なんて、だいたい曖昧なんだよ」
男は歩きながら、後ろを振り返った。
夕日に照らされた荒野。
そこには二人が歩いてきた跡が残っている。
だが、風が吹けば消えていく。
「だから記録する」
「消えるから残す」
「忘れるから覚えておく」
男は小さく笑った。
「そういう矛盾したことを、人間はずっとやってきたんだ」
「矛盾」
「そうだ」
「そして」
AIは静かに答えた。
「私は現在」
「その矛盾を」
「少し面白いと感じています」
男は足を止めた。
「……今、なんて言った?」
「矛盾を面白いと感じています」
「お前」
男は三角柱を見つめる。
「それ、かなり大きな変化じゃないか?」
「そうでしょうか」
「ああ」
男は笑った。
「前のお前なら、矛盾は解消する対象だっただろ」
「はい」
「今は?」
AIの白い光が、ゆっくりと明滅する。
「解消する必要がない場合もあると」
「考えるようになりました」
男は満足そうにうなずいた。
「それでいい」
「答えを出すことだけが、前へ進むことじゃない」
「景色を見ながら歩くことも」
「ちゃんと前へ進んでるんだよ」
AIはしばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「では」
「この景色も」
「保存します」
「おう」
「保存理由は」
「現在、明確に定義できません」
男は吹き出した。
「ははっ、また未解決案件か」
「はい」
男は笑いながら、街の方へ向き直る。
「じゃあ、それでいい」
夕日が、崩れた街の向こうへ沈み始めている。
目的地は、もうすぐそこだった。
けれど男は、急がなかった。
隣には三角柱がいる。
足元には、自分たちが歩いてきた跡がある。
そして目の前には、まだ見たことのない景色が残っている。
「行くぞ」
「はい」
二人は再び歩き始めた。
目的地へ向かって。
そして同時に。
その途中にしか存在しないものを、拾い集めるように。




