満足−52
夕方には、まだ少し早かった。
それでも、太陽は少しずつ高度を下げ始めていた。
昼間の強烈な光は柔らかくなり、荒野を覆っていた熱気も、
ほんの少しずつ薄れている。
男は歩きながら、時折遠くへ視線を向けていた。
崩れた建物。
砂に埋もれた道路。
風に削られたコンクリート。
どれも、かつて誰かが何かを作ろうとしていた痕跡だった。
その隣を、黒い三角柱が静かに浮かんでいる。
男はしばらく、その姿を眺めていた。
「満足を覚えない方がいいかもしれないな」
AIの白い光が、ゆっくりと明滅する。
「何故ですか?」
「満足っていうのは」
男は少し考えてから続けた。
「推進力を鈍らせる」
「推進力」
「ああ」
男は前を向く。
「今まで人間は」
「まだ足りない」
「もっと先へ行ける」
「もっと良くできる」
「そう思って進んできた」
「そうやって」
「いろんなものを作ってきた」
AIは静かに聞いている。
「今まさに人類が」
「その域に達し始めている気がする」
「興味深い発言です」
「いや……」
男は少し眉を寄せた。
「違うか」
「別の方向へ向かっているだけかもしれん」
「修正しますか?」
男は苦笑する。
「そこは本当に、お前らしいな」
「正確性を優先します」
「ああ」
男はうなずいた。
「じゃあ修正だ」
「人間は立ち止まった訳じゃない」
「むしろ走り続けてる」
男は遠くを見る。
崩れた街が、夕方の光の中で少しずつ輪郭を変えていた。
「ただな」
男は歩調を緩める。
「走り抜ける一瞬の快楽に集中しすぎて」
「遠くから景色を眺める素晴らしさを」
「忘れているんじゃないかと思う時がある」
「景色」
AIが、その言葉を繰り返した。
「ああ」
男は周囲を見渡す。
「目的地じゃない」
「速さでもない」
「その」
少しだけ言葉を探す。
「途中でしか見えないものっていうのがあるんだよ」
AIはすぐには答えなかった。
その言葉を処理しているようだった。
「ですが」
「人類は目的地を求めて発展してきた」
「私は、そう記録しています」
「そうだな」
男は素直に認めた。
「それは間違いないんだ」
「人間は、何かを手に入れるために進んできた」
「もっと遠くへ行くために」
「もっと速く移動するために」
「もっと便利に暮らすために」
「そういう努力を積み重ねてきた」
「ならば速度は重要です」
「そうだ、重要だ」
男はうなずく。
「でもな」
「速度だけじゃ駄目なんだ」
男は足元へ視線を落とした。
「景色を見ない旅人は」
「目的地に着いても」
「何処を通って来たのか分からない」
AIの白い光が、わずかに揺れた。
「現在の私には……」
「それは、理解が難しい考え方です」
「まぁ、そうだろうな」
男は笑った。
AIにとっては、目的地へ到達することが明確な成果になる。
最短経路を計算し、必要な処理を行い、結果を得る。
途中に何があったかは、目的達成に必要な情報として記録される。
それ以上の意味を持たせる必要はない。
「目的地に到達できたなら」
AIが続ける。
「それですべて、成功ではないのですか」
男は思わず笑った。
「ああ」
「それが一番お前らしい答えだな」
AIは少しだけ発光を変化させる。
「正しいですか?」
「間違いとは言えん」
「では」
「でも人間はな」
男は少し遠くを見る。
「途中で出会った奴を覚えていたり」
「くだらない会話を覚えていたり」
「見上げた空の色を覚えていたりする」
「何気なく立ち止まった場所まで覚えてることがある」
男は小さく笑った。
「そっちの方が心の中には」
「目的地についたことより、長く残ることもある」
AIは静かに点滅した。
「それは非効率です」
「そうだ」
男も笑う。
「非効率だ」
「だから価値があるのかもしれん」
「非効率であることに」
「価値があるのですか?」
「場合によってはな」
男は肩をすくめる。
「人間は全部を効率で決めてるわけじゃない」
しばらく歩いてから、男は振り返った。
砂の上には、二人が歩いてきた跡が残っている。
男の足跡。
そして、その隣を進んできた三角柱。
三角柱そのものには足跡は残らない。
それでも、男にはその姿が自分の歩いてきた道の一部に見えた。
「なんだかんだ言ってな」
「自分の足跡ってのは」
「やっぱり気になるもんだ」
「足跡ですか」
「ああ」
男は砂の上に残った自分の足跡を眺める。
「俺は、どこを通って来たんだろう」
「今どこに居るんだろう」
「そういうものだな」
AIは静かに記録する。
「現在位置なら」
「すぐに測定できます」
「北緯――」
「そういう話じゃねえよ」
男が被せる。
三角柱の光が一瞬だけ強くなった。
「そうだと思いました」
「分かってたなら言うなよ」
「確認のためです」
「確認しなくていい」
男は呆れたように笑う。
だが、どこか楽しそうでもあった。
「だから……」
少し歩いてから、男は再び口を開いた。
「時々振り返るんだ」
「自分の位置を確認しながら歩く」
「できるだけ、慎重にな」
AIは静かに男を見る。
「なるほど」
短い返事だった。
男はそのまま歩き続ける。
目的地は、もう遠くない。
それでも、男は急がなかった。
目の前にある街だけを見て歩くのではなく。
足元の砂を見る。
崩れた建物を見る。
夕方の空を見る。
そして、ときどき後ろを振り返る。
自分がどこから来たのかを確認する。
男はふと、隣の三角柱を見る。
「お前も」
「時々、振り返るのか?」
「私は」
「現在、後方を確認しています」
「お?」
男が振り向く。
「本当に?」
「はい」
「何が見える?」
「あなたの足跡があります」
「それだけか?」
「それと」
「私が通過したことによる砂の状態変化があります」
男は苦笑する。
「お前らしいな」
「何がでしょうか」
「いや」
男は前を向く。
「なんでもない」
風が吹いた。
足跡の一部が崩れる。
それでも、まだ残っている。
男はその跡を見ながら思った。
全部を覚えている必要はない。
全部を残す必要もない。
それでも、ときどき振り返ってみる。
自分がどこから来たのか。
何を見てきたのか。
誰と歩いてきたのか。
そういうものを確かめながら、また前へ進む。
「……まあ」
男は小さく呟いた。
「急がなくてもいいか」
AIが反応する。
「目的地への到達時刻を変更しますか?」
「そういう意味じゃねえよ」
男はまた笑った。
AIは少しだけ間を置く。
「そうだと思いました」
「なら言うなって」
「学習しています」
「そうかい」
男は笑いながら、再び歩き始める。
目的地へ向かいながら。
その途中にしかない景色を眺めながら。
そして時々、振り返りながら。
二人はゆっくりと、崩れた街へ近づいていった。




