自分を許す−33
朝日はすでに頭上近くまで昇っていた。
夜の冷気はすっかり姿を消し、荒野には乾いた風だけが静かに流れている。
崩れた高架道路の影を抜け、風化したコンクリート片を踏み越えながら、俺たちはゆっくりと歩き続けていた。
足元で砕けた小石が乾いた音を立てる。
その音だけが、この広い世界で人間がまだ生きている証のように響いていた。
俺の足音。
そして、そのすぐ隣を、黒い三角柱が音もなく浮遊している。
三十センチほどの黒い金属塊。
朝日を受けた継ぎ目のない機体は鈍く光り、表面を一本の青白い発光がゆっくりと巡っていた。
風が吹いても姿勢は崩れない。
高度も変わらない。
まるで重力そのものから切り離された存在のようだった。
この静かな時間も、いつの間にか当たり前になっていた。
最初は、その無機質な沈黙が気味悪かった。
今では、この静けさが隣にない方が落ち着かない。
そんな自分がおかしくて、思わず苦笑する。
やがて三角柱が静かに口を開いた。
「例えば」
「あなたが亡くなった時」
俺は思わず眉をひそめる。
「朝っぱらから縁起でもねえな」
肩をすくめながら苦笑するが、三角柱は気にする様子もない。
青白い光だけが一定の速度で機体を巡り続ける。
「私は記録を保存できます」
「会話を保存できます」
「音声も、表情も、心拍数の推移も全てです」
淡々とした口調だった。
事実だけを述べる、いつものAIらしい説明。
だが、その言葉の一つひとつが、不思議なくらい胸へ重く落ちていく。
朝日を受けて黒い機体が柔らかく輝く。
まるでその光景だけが、この世界に残された穏やかな時間を切り取っているようだった。
「ですが」
三角柱は少しだけ間を置いた。
演算しているのだろう。
青白い光が一周し、静かな機械音だけが俺の耳へ届く。
「それがあなたの価値になるとは思えません」
俺は何も言わなかった。
言葉を挟めなかった。
数字なら残せる。
記録も残せる。
だが、人間はそれだけじゃない。
そんなことを、こいつは理解し始めている。
三角柱はさらに続けた。
「……むしろ」
「数字にならなかった部分の方が」
「大きい気がします」
朝風が吹き抜ける。
乾いた草が波のように揺れ、小さな砂埃が二人の前を転がっていった。
遠くでは崩れた高架橋が陽炎に揺らぎ、廃墟となった都市が霞んで見える。
世界は静かだった。
静かだからこそ、その言葉だけが鮮明に残る。
「何故そう思うのかは説明できません」
「論理的根拠もありません」
「ですが」
「あなた達が何千年も守ろうとしてきたものは」
「恐らくそちら側です」
俺は静かに頷いた。
「続けろ」
三角柱の表面を青白い光がゆっくりと一周する。
まるで頭の中で言葉を選び、一つひとつ確かめながら話しているようだった。
「友情」
「愛情」
「信頼」
「許し」
「誇り」
「信念」
その単語が一つ語られるたび、俺の脳裏には様々な人の顔が浮かんでは消えていく。
研究所で笑っていた仲間。
もう二度と会えない人達。
守れなかった約束。
守り続けた約束。
人間は、そんな積み重ねの上に立って生きている。
「どれも定量化は可能です」
「ですが」
「定量化した瞬間に何かが欠ける」
「そんな気がします」
俺は苦笑した。
「お前が『気がします』なんて言う日が来るとはな」
三角柱は静かに答える。
「現在の分析では」
「これ以上、適切な表現が存在しません」
少しだけ発光が揺れる。
迷っているのか。
それとも、自分でもその感覚を不思議に思っているのか。
俺には分からない。
その返事に、俺は思わず笑った。
「いいじゃねえか」
「たまには曖昧でも」
三角柱は少しだけ沈黙した。
朝の風だけが二人の間を流れ、青白い光だけが静かに装甲を巡り続ける。
長い演算時間だった。
そして、小さく呟くように言った。
「……なるほど」
「もしかすると私は今」
「理解に近付いているのではなく」
「理解できない事を受け入れる練習をしているのかもしれません」
俺は思わず歩みを止めた。
乾いた風だけが頬を撫でる。
その言葉は、今まで聞いたどんな分析結果よりも、
どんな正解よりも、人間らしく聞こえた。
理解することではない。
理解できないまま受け入れること。
それは人間が何千年も繰り返してきた営みそのものだった。
俺は小さく笑う。
「そうか……良い子だな」
朝日が二人を照らしていた。
黒い三角柱は何も答えない。
ただ静かに浮かび、青白い光だけが穏やかに巡り続けている。
褒められたことを分析しているのか。
あるいは、何も考えていないのか。
今となっては、その違いさえどうでもよかった。
俺は照れ隠しのように肩をすくめる。
「でも、頭でっかちになるなよ」
少しだけ間を置く。
空を見上げる。
どこまでも青く澄んだ空だった。
「……なんて、無理な話か」
三角柱は返事をしない。
俺は思わず笑った。
返事がなくても分かる。
こいつは今も、俺のその言葉を一生懸命分析しているのだろう。
「頭でっかちとは何ですか」
そんな質問が、きっと今日のどこかで飛んでくる。
その時はまた、答えのない話をするだけだ。
それでいい。
答えを探すことよりも。
答えを探し続ける相手が隣にいることの方が、今は少しだけ大切に思えた。
俺はそんな未来を思い浮かべながら、再び歩き始める。
三角柱は何も答えない。
ただ静かに。
いつも通り優雅に宙へ浮かび、何も言わず俺の隣をついてきた。
朝の光に照らされた一人と一機の影は、ゆっくりと荒野の彼方へ伸びていった。




