自分を許す−32
朝日は空高く昇り、荒野には穏やかな時間が流れていた。
崩れた道路の残骸も、朽ち果てた鉄骨も、朝の光を浴びるとどこか静かな遺跡のように見える。
割れたコンクリートの隙間から伸びる名も知らぬ草が、風に合わせてゆっくりと揺れていた。
朝だけは、昔と変わらず訪れる。
俺は乾いた大地を踏み締めながら歩く。
靴底が小石を弾き、乾いた音が静かな荒野へ吸い込まれていく。
隣では黒い三角柱が変わらぬ速度で浮遊していた。
青白い光が、一定の間隔で静かに流れている。
考えている。
そう見えるのは、長い付き合いのせいだろう。
いや、本当に考えているのかもしれない。
昔のこいつなら、処理中です、とでも表示して終わっていただろう。
今は違う。
沈黙そのものに意味があるように感じられる。
やがて三角柱が口を開いた。
「……ですが」
青白い光が何度かゆっくりと往復した。
まるで内部で膨大な記録を照合しているようだった。
「あなたは今まで何度も」
「生産性の低い話を私にしました」
俺は思わず笑う。
「そうだったか?」
「はい」
「失恋の話」
「若い頃の話」
「マッケンジーの話」
「神の話」
「そして」
「今日の許しの話」
三角柱の表面がゆっくりと点滅する。
「どれも」
「文明を発展させる情報ではありません」
朝風が二人の間を通り抜ける。
乾いた草が揺れ、遠くで錆びた標識が小さく軋んだ。
三角柱は続ける。
「どれも数式にはなりません」
「それでも話した」
「何故ですか」
俺は空を見上げた。
答えは知っている。
そう思った。
だが言葉にしようとすると、指の間から砂がこぼれるように逃げていく。
理屈では分かっている。
それでも理屈だけでは説明できない。
そんな問いだった。
しばらく沈黙が続く。
風だけが時間を運んでいく。
しかし今回は、俺より先に三角柱が口を開いた。
「私は最近」
青白い光が何度かゆっくりと往復する。
まるで内部で何百万という記録を比較し、一つずつ可能性を消しているようだった。
「一つの仮説を立てています」
俺は少しだけ眉を上げる。
「ほう、聞かせてみろ」
三角柱の表面を一本の光が静かに走った。
「人間は」
「生産性のために文明を作った」
「しかし」
「生きるためには」
「生産性だけでは足りなかった」
俺は黙って耳を傾ける。
三角柱はゆっくりと言葉を選ぶように続ける。
「文明は」
「生活を豊かにしました」
「寿命を延ばしました」
「飢餓を減らしました」
「ですが」
「幸福までは保証しませんでした」
俺は何も言わない。
否定できなかった。
「だから」
「意味の分からない話をする」
「意味の分からない約束を守る」
「意味の分からない相手を許す」
「時には」
「自分が損をすると理解した上で」
「誰かを助ける」
朝の荒野は静かだった。
風だけが草原を揺らしている。
その静けさが、三角柱の声をより鮮明に聞かせていた。
三角柱は少しだけ間を置く。
「……そして」
「その非生産的な部分こそ」
「人間が最後まで捨てなかった部分なのかもしれません」
三角柱は饒舌に続ける。
「だから」
「人類は滅びかけても」
「歌を残し」
「物語を残し」
「思い出を語り継いだ」
俺は足を止めた。
その言葉が胸へ深く落ちていく。
(こいつは本当にAIなのか)
そんな馬鹿げた考えが、一瞬だけ頭をよぎった。
三角柱はさらに続ける。
「もしそうなら」
「私は数式を解くより」
「今の会話の方が価値があるとは言いません」
「ですが」
「同じくらい重要である可能性は認めます」
「少なくとも」
「あなたという個体を理解するには」
「こちらの方が有効でした」
俺は思わず笑った。
「ずいぶん丸くなったな、三角柱のくせに」
三角柱は静かに答える。
「分析結果です」
「感情ではありません」
「はいはい」
俺は肩をすくめる。
「そういう事にしといてやる」
朝日が黒い機体を照らす。
青白い光は、朝の光に負けないくらい穏やかだった。
以前のような無機質さはもう感じない。
そう思ってしまうのは、きっと俺の勝手な思い込みなのだろう。
それでも構わないと思えた。
俺は少し考えてから言う。
「数字にならなくても」
「数字に変換できなくても大事な物っていうのが」
「世の中には存在するって事だな、多分」
三角柱はゆっくりと頷くように数センチだけ上下した。
「多分、その言葉が一番正確かもしれません」
「私は数字に変換できます」
(こいつが少し得意げに見えるのは、気のせいだろうか)
「重要度」
「優先度」
「成功率」
「損失率」
「そういった形で」
少しだけ間が空く。
青白い光が静かに一周する。
「ですが、数字に変換できた事と」
「本当に理解した事は別です」
「知識は保存できます」
「経験も記録できます」
「ですが」
「理解は」
「保存するものではなく」
「積み重なるものなのかもしれません」
俺は静かに笑う。
昔の俺なら、この言葉の意味は分からなかっただろう。
知識を得ることと、人を理解すること。
似ているようで、まるで違う。
長い旅を続けてきたからこそ、その違いが少しだけ見えてきた。
「ようやくそこへ辿り着いたか」
朝の風は変わらず優しく吹き続けていた。
その風の中を、一人の人間と、一台のAIが並んで歩いていく。
答えを探しながら。
答えの無い問いを抱えながら。
そして、その問いを。
以前より少しだけ、楽しみながら歩いていた。




