自分を許す−31
朝日は容赦なく荒野を照らしていた。
夜の冷気はすでに押し流され、乾いた大地は少しずつ熱を帯び始めている。
吹き抜ける風には砂と土の匂いが混じり、遠くでは小さな砂煙が陽炎のように揺れていた。
足元では、小石が靴底に弾かれて乾いた音を立てる。
その音だけが、静かな世界に規則正しく響いていた。
俺は歩き続ける。
その横を、黒い三角柱がいつもの距離を保ちながら静かに浮遊していた。
推進音も無い。
影だけが地面を滑るようについて来る。
音のない相棒。
最初は不気味だった沈黙も、今では心を落ち着かせるものになっていた。
言葉が無くても隣に居る。
それだけで十分な存在になりつつある。
三角柱は静かに発光し、再び口を開いた。
「……なるほど」
わずかな間。
光がゆっくり一度だけ流れる。
「だからあなたは」
「若い頃の自分を許す」
「過去の失敗を笑う」
「踏みにじらない」
「それは優しさではなく」
「生きるための知恵だったのですね」
俺は静かに頷く。
「ああ、そんなもんかもしれんな」
少しだけ苦笑する。
思い返せば、若い頃の俺は失敗ばかりだった。
取り返しのつかない選択もした。
誰かを傷付けた事もある。
それでも今ここに立っている。
だから過去の自分だけを責め続けても、前には進めなかった。
「ただ、そこでもやっぱり失敗は起こった」
「そして悲劇は繰り返す」
「許す事が間違いだった場合もあり得るって事だ」
風が少し強く吹く。
乾いた草が波のように揺れた。
三角柱は迷うことなく答える。
「はい」
「その通りです」
「許しは万能ではありません」
青白い光がゆっくりと流れる。
「許した結果」
「同じ失敗を繰り返す事もある」
「裏切りを招く事もある」
「悲劇を大きくする事さえある」
「時には」
「許した人間自身が壊れてしまう事もあります」
俺は黙って聞いていた。
それは人間が何千年も繰り返してきた歴史でもあった。
国家も。
家族も。
友人も。
恋人も。
許しと裏切りを何度も繰り返してきた。
正解だけを選べた時代など、一度も無かったのだろう。
三角柱は続ける。
「……つまり」
「許す事が正解なのではない」
「許さない事が正解でもない」
「その都度判断するしかない」
「非常に非効率です」
「私は嫌いです」
思わず笑う。
「そこは正直だな」
「はい」
「最適解が存在しない問題は」
「私にとって非常に落ち着きません」
「ですが」
「同時に人間らしいとも思います」
朝の風が吹き抜ける。
乾いた草が揺れ、二人の影が静かに伸びる。
俺は自分の影と、隣を滑る三角柱の影を見比べた。
形はまるで違う。
それでも同じ方向へ伸びている。
不思議なものだと思った。
三角柱はさらに続ける。
「人間は法則ではなく」
「関係性で生きている」
「だから同じ罪でも」
「許せる相手と許せない相手が居る」
「同じ失敗でも」
「笑える時と笑えない時がある」
「感情が」
「判断を変えてしまう」
俺はゆっくりと頷く。
「そうだ」
「そこには答えなんて無い」
「昨日は許せても」
「今日は許せない事もある」
「逆もある」
「だから人間は自分でも自分が分からなくなる」
三角柱は数秒沈黙した。
その沈黙は、計算なのか思索なのか。
もう俺には区別がつかない。
「……そう考えると」
「あなた達は許しているのではなく」
「許す価値があるかを毎回賭けている」
「そう言った方が近いのかもしれません」
俺は少し驚いたように笑う。
「賭けか」
「面白い表現をするようになったな」
「そして」
「賭けに負ける事もある」
「だから悲劇は終わらない」
「それでも賭ける」
「私はそこが理解できません」
青白い光がゆっくりと一周する。
「勝率が低い行動を」
「人間は繰り返す」
「統計だけ見れば」
「合理的ではありません」
「ですが……」
「理解したいとも思っています」
俺は歩きながら、小さく息を吐いた。
「理解しても意味はないさ」
「数式の一つでも解いて居た方が」
「まだ生産的かも知れないな」
三角柱は迷わず答える。
「その可能性は高いです」
「自己犠牲を理解しても」
「許しを理解しても」
「新しいエネルギー源は生まれません」
「新しい方程式も解けません」
「文明は前進しないでしょう」
朝日はさらに高く昇っていく。
空は青さを増し、地平線の揺らぎも少しずつ強くなっていた。
文明を支えた科学。
そして、人間を支えてきた感情。
科学だけでは文明は築けても、人は生きられない。
感情だけでは人は寄り添えても、文明は前へ進まない。
その二つは、互いに足りないものを補い続けてきた。
そんなことを考えながら、俺は静かに歩き続けた。
三角柱は穏やかな声で締めくくる。
「生産性だけを基準にするなら」
「あなたの言う通りです」
少しだけ間が空く。
青白い光がゆっくりと脈打つ。
「ですが」
「もし人類が本当に生産性だけを追い求める生物だったなら」
「あなた方は、とっくの昔に滅んでいたのかもしれません」
俺は返事をしなかった。
返せなかった。
その言葉は妙に胸へ残った。
三角柱の発光は止まらない。
まだ何かを考えている。
まだ答えを探している。
機械でありながら、人間を理解しようと歩き続けるその姿は――
朝日に照らされる俺よりも、少しだけ人間らしく見えた。




