Δ−3 (デルタ・スリー) ー13
「建造物をスキャンします」
静かな電子音声が夜へ溶けた。
三角柱の表面を青白い光が何度も巡る。
細い光の帯が廃研究所の外壁をゆっくりとなぞり、
崩れた柱、傾いた梁、
吹き抜けになった屋根を一つずつ測量していく。
人間には何も見えない。
だがΔ-3の内部では、
何十年前の研究棟と現在の廃墟が重ね合わされ、
三次元地図として再構築されているのだろう。
俺は黙ってその様子を眺めていた。
風が吹く。
崩れた窓枠がかすかに軋み、
どこかで外れかけた金属板が揺れて乾いた音を立てた。
かつて世界最先端だった研究施設。
今では草に飲み込まれ、
夜の闇へ静かに沈んでいる。
「構造崩壊率、七十八・六パーセント」
「内部への立ち入りは推奨できません」
「……そうか」
短く返事をする。
分かっていた。
もう二度と、あの研究室へ入ることはできない。
それでも、似ている建物がまだ残っているだけで、
少しだけ安心してしまう自分がいた。
俺はもう一度だけ研究棟へ視線を送り、
小さく息を吐く。
「それに、一番最初に与えられた指示を、
私は厳守いたします」
三角柱が静かに続ける。
俺は視線を戻した。
「なんだ?」
三角柱の表面が淡く発光する。
内部記録が展開される時だけ見せる、
独特の光だった。
雨粒をまとった黒い機体が、
夜空の星を映し込みながらゆっくりと明滅する。
若い頃の俺の声が、静かな荒野へ流れ始めた。
『これは記録だ。いいか?
俺がとち狂って消せというかもしれん』
少しだけ早口で。
疲れているのに妙に勢いだけはある声。
聞き覚えがあり過ぎる。
『だが、消すな。絶対消すな』
俺は眉を上げる。
そうだった。
確かに言った。
まだ完成もしていないAIへ、
必死になって命令を書き込んでいた。
『これをトップの命令に置いておけ! いいな』
記録はそこで終わる。
夜は再び静けさを取り戻した。
俺は数秒間、何も言えなかった。
遠くでは夜虫が鳴いている。
草を渡る風の音だけが耳へ届く。
そして。
「……ははははは」
笑いが込み上げる。
最初は小さく。
やがて肩を震わせるほど大きく。
「言ったな、そういえば」
笑いながら額へ手を当てる。
あまりにも自分らしい。
未来の自分が命令を書き換えることまで予想している。
どこまで信用していなかったんだ、俺は。
「はい。いいました」
三角柱は迷いなく答える。
その返事に、また笑ってしまう。
昔の研究室を思い出していた。
配線だらけの床。
工具が積み上がった机。
ホワイトボードを埋め尽くす数式。
冷めきったコーヒー。
誰も帰ろうとしなかった夜。
成功した日も。
失敗した日も。
全部あの場所だった。
あの頃の俺は、
失敗も成功も全部残すべきだと本気で思っていた。
消してしまうことは簡単だ。
だが、人間の記憶は驚くほど曖昧だ。
嬉しかったことほど細部を忘れる。
苦しかったことほど都合よく書き換えてしまう。
だから残す。
映像も。
音声も。
失敗も。
恥も。
全部。
未来の自分が忘れてもいいように。
未来の誰かが、そこから何かを学べるように。
そんな理想を、本気で信じていた。
俺は苦笑する。
「青臭かったな」
誰へともなく呟く。
三角柱は何も答えない。
ただ静かに俺の隣を浮かび続ける。
それでいい。
この沈黙が、今は妙に心地良かった。




