第16話 ひび割れと大浴場
翌朝、中央都市にある学校の柔道科道場にて――。
「ジョンソン、レイピウス! これを読んでおけ」
誠は二人に資料を手渡した。
「調子は?」
「生徒のですか?」
「いやいや、お前たちの体調だよ」
「はい! 今日も稽古をお願いします!」
「うん! そう来なくっちゃ。よし、始め!」
授業を終えると、誠は二人を交互に投げ、受け身を取らせる稽古を繰り返した。
ズバッ――。
畳を打つ音と投げ込みの音が、日が暮れるまで道場に響き続けた。
「ありがとうございました!」
三人は道場に向かって一礼する。
そのとき、誠は何気なく畳から木床へ、さらに石畳から出口の下、そして壁へと伸びるひび割れに気づいた。
「なぁ、二人とも。このひび割れって、いつからあるんだ?」
レイピウスが答える。
「確か、最初からありましたよ。畳を敷いたときには、すでに……」
「そうか」
二人を先に帰らせた誠は、ひび割れがどこまで続いているのかを確かめていた。
「誠、そろそろ帰れるのか?」
通路を歩きながら、イリスがやってくる。
「なぁ、イリス。このひび割れって、前からあったのかな?」
「たぶんだが、あったはずだ。ここは学校を造るときに、旧城壁をそのまま利用しているからな。それに、このくらいのひび割れなら、城の中にもあるぞ」
「そうか……」
少し気にはなったものの、もともとあったものならと、誠は深く考えずに帰り支度を始めた。
すると、イリスがどこかそわそわした様子で声をかけてくる。
「実はな、魔王様が私のそばにやってきて、『何やらいい香りがするな!』と、意味ありげにおっしゃったのだ。だから、『誠が家に作った風呂で、石鹸やシャンプーを使って体を洗ったのです』と答えたら、明日にでも視察に行きたいと言い出されてな……」
「えっ、明日!?」
「だから、早く帰って二人で風呂に入ろう!」
(食欲よりも物欲……いや、『物浴』に脳を占領されているな……)
誠は呆れつつも、思わず苦笑いした。
「そんなに気に入ったのか?」
「もちろんだ! あんなに素晴らしいものがあるなら、もっと早く知らせてほしかったぞ」
確かに、この世界にやってきてから、風呂など見たことも聞いたこともなかった。
何より、以前の環境では、風呂を作る場所すら用意できなかったのだ。
だが、イリスと出会い、あの離れの倉庫を目にしたときから――。
ここに大浴場ができるのは、なるべくしてなった必然だったのかもしれない。
誠は、そんなことを感じていた。
※ ※ ※
家に――いや、俺の家ではなく、イリスの家に、なんと魔王様がやって来た。
両親を含めた使用人たちはもちろん、当然イリスも、魔王様が直接訪ねてくるなどとは考えたこともなかった。
豪華な衣装に身を包み、重々しく側近を従え、さらには上空に大きな鐘の音を響かせるほど派手な転移陣から、堂々と姿を現したのだ。
イリスと俺は、転移陣の前に片膝をつき、頭を垂れていた。
「面をあげい! 誠よ、久しいな、ははは!」
「魔王様におかれましては――」
「いやいや、今日はお忍びで参ったのじゃ! 堅苦しくするな。それよりイリスよ、早速その『風呂』とやらを紹介しろ」
「は! では、あの離れへ!」
「ふむ! あの中におるのか!」
(……あの離れに魔王が入るのか?)
誠は心の中で突っ込んだ。
(いや、いるんじゃない! あの建物そのものが風呂なんだ!)
「あっ」
思わず声を漏らした誠は、慌てて付け加える。
「魔王様、風呂とは、あの建物そのもののことです。中をご覧になれば、お分かりになるかと」
イリスは魔王様をお迎えするため、すでに湯を沸かしていた。
ドアから中を覗き込んだ魔王様は、連れてきた六名ほどの侍女たちとともに中へ入った。誠も一緒に入り、石鹸を使った身体の洗い方や、シャンプーでの頭の洗い方を細かくレクチャーする。
そして、ついに湯船へと浸かった魔王様。
「おお……これは……!」
何を思ったのか、あまりの気持ちよさに、湯船に入っては出て、また入っては出てを繰り返す。
結局、魔王様は朝から昼過ぎまで、たっぷりと長湯を楽しむこととなった。
その結果は、当然のように目に見えていた。
「誠よ、これを城の中にも作れ」
「……ですよね~」
こうして誠は、魔王様専用の大浴場と兵士用の大浴場――計二か所の設計を任される羽目になった。
もはや、柔道科の授業どころではなくなりつつある。
ただし、そこはさすが魔国。
土魔法や水魔法に長けた人材の集団だけあって、誠が指示を出すだけで、作業は驚くほどの速さで進んでいった。
城壁には簡単に穴が開けられ、川から水を引く水路が造られる。さらに、風呂から溢れた湯を流すための下水道まで、誠の指示通りにトントン拍子で整備されていった。
その出来栄えは、誠が感心するほどのものだった。
大浴場の床や壁には大理石が敷き詰められ、なんとも豪華な仕上がりとなった。
こうして、兵士たちは毎日のように湯に浸かり、一日の疲れを癒やせるようになった。
その結果、兵士たちの士気が爆発的に上がったのは、言うまでもない。
さらに、誠が作った湯は、ただ疲れを癒やすだけではなかった。
翌日の活力を与えるだけでなく、怪我の治癒にも効果を発揮したのだ。
明らかに傷の治りが三倍は早くなる。
いつしかそれは、「魔法のヒール湯」と呼ばれ、一躍有名になった。
当然、この噂は王都だけにとどまらなかった。
北・東・西を治める三人の四天王のもとへも、瞬く間に広まっていったのである。
四天王の北方領地を治める、第一の四天王・ガルバ。
東方領地を治める、第二の四天王・モザリエル。
西方領地を治める、第三の四天王・バドリック。
彼らはそれぞれ、大した用もないのに王都へやってきては件の湯に浸かり、そのあまりの気持ちよさに、自分たちの領地でもこぞって風呂を作り始める始末だった。
……が、そこには一つ、大きな違いがあった。
いくら豪華な浴槽を真似て作ったところで、そこには誠の淹れた「魔法のヒール湯」もなければ、あの魅惑の「石鹸」や「シャンプー」も存在しなかったのである。
それらがあるのは、魔王専用の大浴場だけだった。
ところが――。
侍女たちが魔王専用の大浴場から石鹸やシャンプーを持ち出し、こっそり使っていることは、いつの間にか兵士たちにも知れ渡っていた。
それは、まぎれもない事実だった。




