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黒瀬によれば、これは純愛らしい。  作者: 柊ナツキ
第1章『まだ隣にはいられない』

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第7話 ケモナー、おめ!

 橘の即答に、黒瀬はほんの少しだけ固まる。けれどそれは一秒にも満たず、すぐに口元を緩めた。


「でも、否定が早いのは意識しているからだよね。君は僕の発言を反射的に否定できるくらいには、僕の言葉を聞いている」


「燃え広がる前に消火してるだけな」


「否定、今日いち速かったね」


 いつの間にか隣に来ていたつきのが、掲示板のスクショを見ながら言った。


「速く切らないと意味増やされるから」


「でも黒瀬くん、否定されても栄養にしてない?」


「してる」


「食うな」


 橘は鮭弁当の空き容器が入った袋を片手に、掲示板のスクショをもう一度見た。


 泥まみれの男。

 葉っぱの刺さった髪。

 腕の中の猫。

 背景には、どぎついラブホテル街のネオン。


 どう見ても、人生で一度も掲示板に貼られてはいけない種類の写真だった。


「てか、これ普通に黒歴史じゃん。何で自撮りまでしてんの。しかもキメ顔」


「保存だよ。世界が、僕たちを認識した日の記録として」


「猫に求婚して晒された日だろ」


「記録名で揉めてる時点で式典じゃないんだよ」


 つきのが笑いながら言う。


 掲示板の前には相変わらず人だかりができている。通り過ぎる学生たちが、スクショを見て、黒瀬を見て、橘を見て、ひそひそ笑う。

 橘まで珍事件の構成要素みたいに見られているらしい。

 その隣で、黒瀬はなぜか満足そうな顔をしている。


「あんた、どういう精神状態なの。これ見て普通消えたくならない?」


「ならないよ。むしろ残しておきたい」


「何を」


 黒瀬は貼り紙ではなく、その上に薄く映る橘を見ていた。


「君が僕を見て、あんなふうに笑った時間を」


 午後の光が、掲示板のガラス越しに黒瀬の横顔を淡く縁取る。

 そこで、橘の返事が一瞬だけ遅れた。指先で鮭弁当の袋がかすかに鳴る。


「動画は君の笑い声以外を消して保存した」


「今だけ顔の良さが仕事してたのに、保存方法で全部クビになったわ」


 橘の隣でつきのが堪えきれずに吹き出した。


 腹が立つことに、昨日いちばん笑ったのは事実だった。


「猫に宇宙ポエム語るやつとか、動物園の危険生物コーナーでもなかなか見ないだろ」


「でもこれ、構図としては悪くない。君が僕を見つけた場所。僕が君を探した場所。猫が中継した場所。全部ここに写ってる」


「猫を聖地にすな」


「……まあ、猫につけたのは私だけど」


 つきのはスクショの中の猫を見て、橘の方を向いた。


「だから止めたじゃん。冗談じゃなかったんかい」


「写メだけ撮って外すつもりだったんだって。猫の機動力なめてたわ」


「結果、ラブホ前で求婚されてるけど」


「猫生もハードモードだね」


 つきのはそこで、ふと周囲の視線に気づいたように顔を上げた。

 掲示板前の人だかりは、明らかにこちらを見ている。


「私、これ以上いたら変な当事者にされそうだから先行くわ。めるちゃんも早めに逃げなね。物理じゃなくて概念的に」


「手遅れっぽいんだよな」


 つきのは半目のまま黒瀬と橘を一度ずつ見る。冷静な目で、完全に飼育事故の原因を特定していた。


「あと、笑うなら餌与えてる自覚は持ちな。黒瀬くんに」


 つきのは「がんば」とだけ言って、笑いながら人混みの方へ消えていった。


 橘が呆れながらスマホを取り出すと、画面には通知がいくつか溜まっていた。


『あれ飼ってんの? 野生?』

『猫男の続編いつっすかwww』

『未読無視? まあ、今は猫男で忙しいか』

『あの人紹介して。会話機能は切っといて』


「じぇに、あんたのおかげで私までバズってんだけど。実質広報担当になってる」


 橘がスマホの画面を見せると、黒瀬の視線がわずかに止まった。


「君との関係が、外側に漏れたんだね」


「漏洩事故な。ま、そのおかげでしばらくは飯代に困らなそうだけど」


 ピコン。

 橘のスマホが鳴る。昨日から何度も続いている通知だった。


 少し前まで、黒瀬はそれを悪くないものとして受け取っていた。

 自分たちが見られている音。

 橘の隣に、自分の名前が並んでいる音。


 けれど、通知の向こうにいるのは黒瀬ではない。橘の笑い声を外側から拾いに来る知らない誰かだ。


「あんたの話聞きたいって人から飲みに誘われてるし、奢ってもらえるみたいだから普通にラッキー」


「僕は、君が他の男と繋がるためのフリー素材じゃない」


「嫉妬の出し方が素材サイトなんだよ」


「第三者への再配布は禁止だよ」


「じゃあ私が喋るたびに海賊版が増えてくじゃん」


 黒瀬は一瞬だけ黙った。口元は笑っているが目だけは笑っていない。


 橘は構わずスマホをポケットに突っ込む。

 掲示板前のざわめきの中で、再び通知が鳴った。


「……うるさいな」


 急に温度の低い声が落ちて、橘はスマホをマナーモードにした。

 怖かったわけではない。ただ、今の黒瀬の言い方は、通知音ではなく通知の向こう側を見ているみたいだった。


「こわ。通知くらいで病むなって」


「病んでない。減らせばいいと思っただけ」


「マジで余計なことはすんなよ。あんたの『減らす』って、だいたい私の人権も一緒に減るから」


 黒瀬は答えなかったが、代わりに目を伏せた。


 昨日は猫に愛を語り、今日は通知音に反応している男。

 方向は違うのに面倒くささだけは変わらない。


 橘はため息をつきかけて、そこでふと、黒瀬の顔を見る。


「……あんた、飯食ってんの?」


「君の通知が増えたことと、僕の摂食状況に因果関係はないよ」


「ある顔してんだよ」


 よく見れば、顔色が悪い。


 祝福だの記念日だの言っていたくせに、身体の方はだいぶ正直だった。

 泥まみれで走り回り、猫に告白し、晒され、翌日には掲示板前で自撮りまでしている。元気な方がおかしい。


「ちゃんと寝た?」


「必要量は」


「絶対足りてないやつの返事じゃん」


「君のことを考えていたら、時間の認識が少し曖昧になっただけだよ」


「寝不足を恋愛ポエムに変換すんな」


 橘はコンビニ袋を漁った。


 中には、食べる気がなくなっていた未開封の鮭おにぎりが入っている。あとで自分で食べるか、誰かに押しつけるつもりだったものだ。

 橘は一瞬迷ってから、それを黒瀬へ投げた。


「ほら。人間の方も食え」


 黒瀬は反射的に受け取った。


「……これは」


「倒れられたら面倒なんだよ。猫だけ助けて人間が死にかけてたら後味悪いから」


 黒瀬の指が、包装の上で止まった。

 さっきまで通知音を処理対象みたいに見ていた男が、急に人間みたいな顔をする。


「……見てたんだ」


「見えるだろ、その顔色。祝福とか言ってたくせに、体の方は全然祝ってねぇじゃん」


「めるからの直接供給……」


「ただの餌だわ。変な意味つけるなら返せ」


「返せないよ。これはもう、僕の内側へ向かっている」


「まだ包装開けてねぇだろ」


「摂取はまだでも意味の吸収は始まってる」


「食う前から消化すんのこわ」


 黒瀬はやけに丁寧に包装を開けた。けれどすぐには食べず、真面目な顔で橘を見る。


「……ありがとう」


 素直に礼を言われると、それはそれでやりづらい。橘は逃げるように視線を逸らした。


 心配したつもりはない。生態の読めない珍獣が順調に弱っていれば、嫌でも目には入る。たぶん、それだけだ。


(おもろいのがムカつくんだよな……)


 橘は呆れながら自販機の裏を指さした。


「はい、人間の処置終わり。次、あっちの猫に謝ってきな。変なポエムを聞かせた罪は重い」


「……猫に謝れば、君からの評価が上がる?」


「一ミリくらいはね」


「分かった。謝罪しに行くよ」


「よし。マジで頭下げてたら写メ撮るわ」


 そう言いつつ、橘は笑いながら歩き出した。


 黒瀬はすぐには後を追わなかった。片手に鮭おにぎりを持ったまま、数秒だけ、掲示板に貼られた自分の写真を見つめる。


 晒されたことも、笑われたことも、橘が自分を見つけたことも。

 それらはまだ、黒瀬の中では都合よく美しい意味に変換できていた。


 けれど、橘のスマホが鳴った瞬間だけは違う。

 あの音は黒瀬を祝福していない。橘を外側へ呼んでいる。


 黒瀬は鮭おにぎりを静かに口へ運び、それから自販機裏へ向かった。


 自販機裏には例の茶トラがいた。


 黒瀬はその前まで行くと、猫を驚かせないようにゆっくりしゃがみ込んだ。 

 野良猫相手だというのに背筋はまっすぐで、姿勢だけ見れば真面目な謝罪会見である。


「昨日は、君を通してめるに触れようとした。中継負荷をかけすぎたことは認める。……謝罪する」


 欠伸をする猫を眺めながら、黒瀬はしばらく待った。

 そして許可を得たつもりで、そっと手を伸ばす。


「では、接触確認を──」


 その瞬間、猫の前足が黒瀬の指先をぺしっと押さえた。


「……」


 黒瀬の手が、空中で止まる。


「なるほど。拒絶ではなく、一時停止か」


 猫は何も考えていない顔で、もう一度欠伸をした。


「了解。段階管理はめる本体より厳密なんだね」


 その様子を通りすがりの学生が撮っていたことに、黒瀬だけが気づかなかった。


 そのとき、遠ざかっていく橘のスマホがポケットの中でまた小さく鳴る。

 ピコン。


 黒瀬は顔を上げ、目だけでその気配を追う。

 さっきまで祝福だった音が別のものに変わっていく。


「……やっぱり、少しうるさいな」


 誰にも聞こえない声で黒瀬はつぶやいた。


 ◇◇


 ピコン。

 ベッドに寝転がった橘は、だるそうにスマホの画面を覗く。


 部屋の電気は消している。カーテンの隙間から、外の街灯だけが薄く差し込んでいた。

 冷蔵庫の低い音と、遠くを走る車の音。それくらいなら、まだ夜の静けさとして処理できる。


 問題は、手元の画面だった。

 無響大学・非公式掲示板の更新通知がさっきから途切れない。


【悲報】ラブホ前で猫に求婚した男、学内掲示板で本人降臨www


 ワイ、掲示板前で自分の晒し画像と自撮りする男を目撃し大学生活に不安を覚える


【検証】猫耳→犬→猫求婚→猫に謝罪 進化ルート、もう誰も追えない


【議論】顔面SSR倫理Nの使い道


 橘める「違ぇよ」猫男「否定が早い。つまり僕の言葉を聞いている」←これ


【考察】橘める、被害者なのか飼育員なのか分からない


「最後なんだよ」


 橘はそれだけぼそっと呟いて、通知を流した。


 スレタイだけでだいたい一日の流れが分かる。

 それがまず終わっていた。


 画面の中では、黒瀬じぇにという男が、本人不在のまま勝手に増殖している。どの話題も終わっているのに、絵面だけは強いせいで余計に話が広がっていく。


 橘は画面を伏せようとして、また光ったスマホに目を落とした。

 今度は掲示板ではなかった。


『佐伯まさき:例の猫男の話、詳しく聞きたいんだけど。奢るから飲み行かない?』


「……奢りか」


 橘の親指が、返信欄の上で止まる。


 黒瀬は重い。

 通知は軽い。


 近くにいたら面倒くさい男も、話題としては軽い。人に見せれば笑われる。酒の席に持っていけば盛り上がる。飯代くらいならたぶん浮く。

 なら、今の橘がどちらへ転ぶかなんて決まっていた。


「猫男、便利じゃん」


 橘は笑って、短く返した。


『いいよ。唐揚げある店なら行く』


 送信。

 すぐにピコンと音がする。


『じゃあ駅前の居酒屋で。唐揚げあるとこ』


 あまりにも軽い返事だった。黒瀬が一晩かけて重くした世界も、通知欄ではたった一行の話題になる。笑って、送って、次の誰かへ渡してしまえる。


 その上から、また別の名前が重なった。

 ピコン。


 黒瀬のいない場所で、黒瀬の知らない言葉が橘へ届く。


 けれど確かにその軽さは、黒瀬じぇにの世界を少しだけうるさくした。



 第1章『まだ隣にはいられない』完

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― 新着の感想 ―
橘さんの適当なやさしさ。でも黒瀬君にはしみわたってる? 黒瀬君は基本、害のない奇人だけど、橘さんへの独占欲はちゃんとあるようなので、黒瀬君への塩対応は問題ないとしても、他の男と飲み食いとかしだしたら黒…
perfect
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