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黒瀬によれば、これは純愛らしい。  作者: 柊ナツキ
第1章『まだ隣にはいられない』

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第7話 ケモナー、おめ!

 橘の即答に、黒瀬は一瞬だけ固まった。だが、すぐに口元を緩める。


「否定が早い。僕の言葉を意識して待っていたんだね」


「燃え広がる前に消火してるだけな」


「否定、今日いち速かったね」


 いつの間にか隣に来ていたつきのが、掲示板のスクショを見ながら言った。


「でも黒瀬君、否定されても栄養にしてない?」


「してる」


「食うな! てかさ、なんでこんな大晒し食らって喜べるわけ? 普通に黒歴史だろ」


「むしろ残しておきたい」


「なんで?」


 黒瀬は貼り紙ではなく、掲示板のガラスに薄く映る橘を見ていた。


「……あのとき、君が笑ってたから」


 午後の光が黒瀬の横顔を淡く縁取る。

 そこで、橘の返事が遅れた。握っていたレジ袋がかすかに鳴る。


「動画から君の笑い声だけ抽出して保存したよ」


「きっしょ。今だけ顔の良さが仕事してたのに、保存方法で全部クビになったわ」


 橘は呆れながらスマホを開いた。先ほど黒瀬が投稿したばかりの自撮りが、さっそく学内SNSの上部に表示されている。


【記念日:世界が僕たちを認識した日】


 背景には猫を抱いた泥まみれのスクショ。その横で、黒瀬本人だけが異様に完成度の高いキメ顔をしている。


「待って。こいつ、自分の晒し画像に『記念日』ってつけて再投稿してる。あははっ、誰との記念日だよ!」


「君と僕と猫の」


「猫だけ巻き込まれ事故で草。猫に宇宙ポエム語るやつとか、動物園の危険生物コーナーでもなかなか見ねぇ!」


 橘はスマホと掲示板を見比べ、また声を上げて笑う。

 その隣でつきのは笑わず、虚無の目をしていた。


「……めるちゃん。私は止めたはずなんだけど、あれ冗談じゃなかったんかい」


「ブレスレットは写メだけ撮って外すつもりだったんだって。猫の機動力なめてたわ」


「笑ってる場合じゃないでしょ。あなた、いい加減餌与えてる自覚持ちな」


「猫に?」


「そっちじゃない」


 つきのは、どこか嬉しそうに橘を見ている黒瀬へ視線を移す。否定材料が本人の顔に一つもないのが最悪だった。


 掲示板前の人だかりはさっきより増え、明らかに橘たち三人を見ている。


「……私、これ以上いたら変な当事者にされそうだから先行くわ。めるちゃんも早めに逃げなね。物理じゃなくて概念的に」


「手遅れっぽいんだよな」


「うん。だから、がんば」


「何を?」


 つきのはそれだけ言い残し、人混みの向こうへ消えていった。


 つきのを見送った橘がスマホへ目を戻すと、画面には通知がいくつも溜まっていた。


『あれ飼ってんの? 野生?』

『猫男の続編いつっすかwww』

『未読無視? まあ、今は猫男で忙しいか』

『あの人紹介して。会話機能は切っといて』


「じぇに、あんたのおかげで私までバズってんだけど。実質広報担当になってる」


 橘がスマホの画面を見せると、黒瀬の視線がわずかに止まった。


「君との関係が外側に漏れたんだね」


「漏洩事故な。ま、そのおかげでしばらくは飯代に困らなそうだけど」


 ピコン。

 橘のスマホが鳴る。昨日から何度も続いている通知だった。


 ついさっきまで、黒瀬は通知音を悪くないものとして聞いていた。自分たちが見られている音。橘の隣に、自分の名前が並んでいる音。


 だが、通知の向こうにいるのは二人を祝う観客ではない。

 橘の笑い声を外側から拾いに来る知らない誰かだ。


「あんたの話聞きたいって人から飲みに誘われてるし、奢ってもらえるみたいだから普通にラッキー」


「僕は、君が他の男と繋がるためのフリー素材じゃない」


「嫉妬の出し方が素材サイトなんだよ」


「第三者への再配布は禁止だよ」


「じゃあ私が喋るたびに海賊版が増えてくじゃん」


 黒瀬は笑ったまま黙り込む。目だけが、通知の向こう側を見ていた。


 橘は構わずスマホをポケットに突っ込む。

 掲示板前のざわめきの中で、再び通知が鳴った。


「……うるさいな」


 急に温度の低い声が落ちて、橘はスマホをマナーモードにした。怖かったわけではない。ただ、今の「うるさい」は音量の話ではなさそうだった。


「こわ。通知くらいで病むなって」


「病んでない。減らせばいいと思っただけ」


「マジで余計なことはすんなよ。あんたの『減らす』って、だいたい私の人権も一緒に減るから」


 黒瀬は答えず、目を伏せた。


 昨日は猫に愛を語り、今日は通知音に反応している男。

 方向は違うのに面倒くささだけは変わらない。


 橘はため息をつきかけて、そこでふと、黒瀬の顔を見る。


「……あんた、飯食ってんの?」


「君の通知が増えたことと、僕の摂食状況に因果関係はないよ」


「ある顔してんだよ」


 よく見れば、顔色が悪い。


 祝福だの記念日だの言っていたくせに、身体の方はだいぶ正直だった。

 泥まみれで走り回り、猫に告白し、晒され、翌日には掲示板前で自撮りまでしている。元気な方がおかしい。


「ちゃんと寝た?」


「二十三分。残りは君のことを考えるのに使った」


「睡眠時間まで私に投げ銭すんな」


 橘はコンビニ袋を漁った。鮭弁当の空容器の下から、未開封の鮭おにぎりが出てくる。


 橘は一瞬迷ってから、それを黒瀬へ投げた。


「ほら。人間の方も食え」


 黒瀬は反射的に受け取った。


「……これは」


「倒れられたら面倒なんだよ。猫だけ助けて人間が死にかけてたら後味悪いから」


 黒瀬の指が、包装の上で止まった。さっきまで通知音を処理対象みたいに見ていた男が、急に人間みたいな顔をする。


「……見てたんだ」


「当たり前だろ、その顔色。祝福とか言ってたくせに体の方は全然祝ってねぇじゃん」


「めるからの直接供給……」


「ただの餌だわ。変な意味つけるなら返せ」


「返せないよ。これはもう、僕の内側へ向かっている」


「まだ包装開けてねぇだろ」


「摂取はまだでも意味の吸収は始まってる」


「食う前から消化すんのこわ」


 黒瀬はやけに丁寧に包装を開けた。けれどすぐには食べず、真面目な顔で橘を見る。


「……ありがとう」


 素直に礼を言われると、それはそれでやりづらい。橘は逃げるように視線を逸らした。


 心配したつもりはない。生態の読めない珍獣が順調に弱っていれば、嫌でも目には入る。たぶん、それだけだ。


(おもろいのがムカつくんだよな……)


 橘は呆れながら自販機の裏を指さした。


「はい、人間の処置終わり。次、あっちの猫に謝ってきな。変なポエムを聞かせた罪は重い」


「……猫に謝れば、君からの評価が上がる?」


「一ミリくらいはね」


「分かった」


 黒瀬は鮭おにぎりを片手に、自販機の裏へ向かった。


「え、マジで行くの?」


「君が望んだことだよ」


「いや、冗談──」


 止めるには少し面白すぎた。

 橘もスマホを構えながら、その後をついていく。


 自販機の裏には、例の茶トラがいた。昨日の騒動など最初から存在しなかったような顔で、日なたに長く伸びている。


 黒瀬は猫を驚かせないよう、少し離れた場所へしゃがんだ。

 泥まみれで猫に宇宙ポエムを聞かせた男とは思えないほど所作だけは静かだった。背筋を伸ばし、猫と同じ高さまで視線を落とす。


「昨日は、君を通してめるに触れようとした。中継負荷をかけすぎたことは認める。……謝罪する」


 黒瀬は猫へ向かって、深々と頭を下げた。


「申し訳なかった」


 その隣で橘は笑い声を漏らし、周囲の学生も足を止める。


 だが黒瀬は数秒間、その場で猫からの回答を待っていた。そして許可を得たつもりで近づき、そっと手を伸ばす。


「では、接触確認を──」


 その瞬間、猫の前足が黒瀬の指先をぺしっと押さえた。


「……」


 黒瀬の手が、空中で止まる。


「なるほど。拒絶ではなく、一時停止か。段階管理はめる本体より厳密なんだね」


「あはははっ! 腹痛い!」


 橘は笑いすぎて滲んだ涙を指で拭う。黒瀬は猫の前にしゃがんだまま、その顔を見上げる。


「評価は?」


「猫への態度だけ二ミリ上がった。あんたには無し」


「評価の譲渡先が違う」


「知らねぇよ。じゃ、講義遅れるからもう行くわ。じゃーね」


 橘はまだ笑いながら、片手をひらひら振って歩き出した。


 軽い笑い声を残して、橘の背中が遠ざかっていく。


 黒瀬は追わなかった。足元では茶トラが鮭おにぎりの包装を嗅いでいる。それにも構わず、黒瀬は橘の後ろ姿だけを見ていた。

 自分を見て笑っている間は悪くなかった。


 ピコン。

 遠ざかる橘のポケットから通知音が鳴る。


 彼女はすぐにスマホを取り出し、画面を見てまた笑った。


 今度は黒瀬の知らない誰かに向けて。


 黒瀬の口元から、ゆっくり笑みが消える。


「……やっぱり、少しうるさいな」


 猫だけが、その声を聞いていた。


 ◇◇


 ピコン。

 ベッドに寝転がった橘は、だるそうにスマホの画面を覗く。


 真っ暗な部屋に、カーテンの隙間から外の街灯だけが薄く差し込む。冷蔵庫の低い音と、遠くを走る車の音。それくらいならまだ夜の静けさとして処理できる。


 問題は手元の画面だ。無響大学・非公式掲示板の更新通知がさっきから途切れない。


【悲報】ラブホ前で猫に求婚した男、学内掲示板で本人降臨www


 ワイ、掲示板前で自分の晒し画像と自撮りする男を目撃し大学生活に不安を覚える


【検証】猫耳→犬→猫求婚→猫に謝罪 進化ルート、もう誰も追えない


【議論】顔面SSR倫理Nの使い道


 橘める「違ぇよ」猫男「否定が早い。僕の言葉を待っていた」←これ


【考察】橘める、被害者なのか飼育員なのか分からない


「最後なんだよ」


 橘はそれだけぼそっと呟いて、通知を流した。


 スレタイだけでだいたい一日の流れが分かる。

 それがまず終わっていた。


 画面の中では、黒瀬じぇにという男が本人不在のまま勝手に増殖している。どの話題も終わっているのに、絵面だけは強いせいで一向に鎮火しない。


 橘がスマホを伏せようとしたとき、別の通知が届いた。


『佐伯(さえき)まさき:例の猫男の話、詳しく聞きたいんだけど。奢るから飲み行かない?』


「……奢りか」


 橘の親指が、返信欄の上で止まる。近くにいれば面倒な男も画面の中では笑い話になる。酒の席へ持っていけば飯代にもなる。


 黒瀬は重い。

 通知は軽い。


 なら、今の橘がどちらへ転ぶかなんて決まっていた。


「猫男、便利じゃん」


 橘は笑って、短く返した。


『いいよ。唐揚げある店なら行く』


 送信。すぐに返信が届く。


『じゃあ駅前の居酒屋で。唐揚げあるとこ』


『りょ』


 黒瀬が一晩かけて重くした世界は、たった数行のやり取りで橘の飲み会の予定になった。


 けれど確かにその軽さは、黒瀬じぇにの世界を少しだけうるさくした。



 第1章『まだ隣にはいられない』完

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― 新着の感想 ―
純愛とストーカーの狭間を考えさせられる。 ノリが軽いと、純愛に見えるのが不思議ですね。 所々言葉遣いのセンスがすごい。 思わず笑う言い回しが多くて最高でした。
「そういうプレイなんだね」に「違ぇよ」の即答が返るところで笑いました。 猫に真顔で謝る黒瀬と、前足でぺしっと止める猫も良かったです。 鮭おにぎりを投げる橘の優しさも好きです。 第1章まで読ませてい…
「昨日重かったのは油ではない。黒瀬である」「恋愛でワンオペ決裁すんな」「最高のフラワーシャワーだった」――語彙のセンスと切れ味が抜群!軽妙な黒瀬と橘のテンポが心地よくて、一気に読めてしまいます。会話を…
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