第7話 ケモナー、おめ!
橘の即答に、黒瀬はほんの少しだけ固まったが、すぐに表情を緩めた。
「でも、否定が早いのは意識しているからだよね。君は僕の発言を反射的に否定できるくらいには、僕の言葉を聞いている」
「ポジティブすぎて日本語力ねじ曲がってんじゃん」
橘は鮭弁当の空き容器が入った袋を片手に、掲示板のスクショをもう一度見た。
泥まみれの男。
葉っぱの刺さった髪。
腕の中の猫。
背景には、どぎついラブホテル街のネオン。
どう見ても、人生で一度も掲示板に貼られてはいけない種類の写真だった。
「てか、これ普通に黒歴史だろ。何で自撮りまでしてんの。しかもキメ顔」
「保存だよ。世界が僕たちを認識した日の記録として」
「猫に告って晒された日な」
黒瀬は掲示板を見つめたまま、なぜか満足げだった。
橘と黒瀬が話し始めてから、周りの学生たちのヒソヒソ声はさらに増えている。それすら黒瀬にとってはたぶん祝福のざわめきに聞こえている。
「でも、案外、あの瞬間は嫌いじゃない」
「嫌わない要素どこ?」
「君が笑っていたから」
静かな声で黒瀬は言う。
掲示板のガラス面には、貼り出された無様なスクショと、その前に立つ今の黒瀬、それから隣で鮭弁当の袋をぶら下げた橘の姿が、薄く重なって映っている。
ラブホ街で奇行を働いた男を笑い飛ばし、今は大学の掲示板前で普通に会話しているこの状況。
改めて考えると、わりと意味が分からない。
「ラブホ街で猫にブラックホールポエム語りかける奴なんて、人生で1回見るかどうかのレアキャラだよ。笑わない方が無理」
「でもこれ、構図としては悪くないよね」
「どこが?」
「君が僕を見つけた場所。僕が君を探した場所。猫が中継した場所。三位一体の神聖なロケーションが全部1枚に収まっている」
「私が言えたことじゃないけどマジであの猫かわいそう」
橘が呆れながらスマホを取り出すと、画面には通知がいくつか溜まっていた。
『これ、めるの知り合い?』
『昨日の配信で晒されてたのなんでwww』
『飲み行こー。猫男の話聞きたい』
『あの人紹介して。顔だけでいいから』
「じぇに、あんたのおかげで私までバズってんだけど。実質広報担当になってる」
橘がスマホの画面を見せると、黒瀬の視線がわずかに止まった。
「君との関係が、世界に認識されたんだね」
「事故物件の紹介な。ま、そのおかげでしばらくは飯代に困らなそうだけど」
ピコン。
橘のスマホから鳴る軽くて薄い電子音。
その音はさっきまで、黒瀬にとっては祝福に近いものだった。
世界が自分たちを見た音。
世界が橘めるに気づいた音。
けれど、通知の向こうにいるのは黒瀬ではない。
橘の笑い声を、外側から拾いに来る知らない誰かだ。
「あんたの話聞きたいって人から飲みに誘われてるし、奢ってもらえるなら普通にラッキー」
「……僕の話をするために、僕じゃない男と食事をするの?」
「飯代浮かせるためのネタとして消費するだけ」
「僕は、君の外部接続用コンテンツじゃない」
「急に横文字でキレんな。じゃあ何、使用許諾いるの?」
「いる」
「草」
黒瀬は一瞬だけ黙った。口元は笑っているが目だけは笑っていない。
「……君に届く音、増えたね。僕が世界に晒されたら、君まで世界に見つかった」
「言い方重っ。つーか、こうなったのもあんたの自業自得だからね?」
橘はスマホをポケットに突っ込み、改めて掲示板の写真を見る。
だが黒瀬は、掲示板に貼られたスクショではなく、その横に書き込まれた落書きの方を見ていた。
『顔だけは良いの腹立つな』
「……でも、顔は良いって言われてたね。君もそう思う?」
「は?」
「僕の顔」
橘は流し目で一瞬だけ黒瀬の顔を見た。確かに、腹立つくらいには整っている。
「まぁ、顔だけなら……あ、失言。中身は全損してるから総合評価マイナス」
「顔だけなら」
「悪質な切り抜きおつ。ホント都合の良い耳だな」
なぜか嬉しそうな黒瀬の顔はやはり普通に様になっていて、橘はなんとなく腹が立ち、空き容器の入った袋をぐしゃりと握りつぶした。
その時、また橘のスマホが鳴る。
軽い通知音が、掲示板前のざわめきの中で不思議とはっきり響く。
「……うるさいな」
「──」
急に温度の低い声がして、橘はスマホをマナーモードにした。
怖かったわけではない。ただ、黒瀬の言い方が少しだけ引っかかった。
「こわ。通知くらいで病むなって」
「病んでない。減らせばいいと思っただけ」
「マジで余計なことはすんなよ。あんたの『減らす』って、だいたい私の人権も一緒に減るから」
黒瀬は答えなかったが、代わりに目を伏せた。
昨日は猫に愛を語り、今日は通知音に反応している男。方向は違うのに、面倒くささだけは変わらない。
橘はため息をついて、自販機の裏を指さした。
「とりまあっちに猫いるから、詫び入れてきな。優しいよあの子」
「……猫に謝れば君からの評価が上がる。わかった。謝罪しに行くよ」
「よし、マジで頭下げてたら写メ撮るわ」
そう言いつつ、笑いながら去っていく橘。
黒瀬は後を追わず、数秒だけ、掲示板に貼られた自分の写真を見つめる。
少なくともこの瞬間までは、彼にとってはすべてが祝福だったのだ。
その後、黒瀬は本当に自販機裏の茶トラの前まで行き、普通にしゃがみ込んだ。
黒瀬の中では、その猫はもはや橘に繋がる外部端末であり、少しだけ彼女そのものでもあった。
「昨日は、君を通してめるに触れようとした。中継負荷をかけすぎたことは認める。……謝罪する」
欠伸をする猫を眺めながら、黒瀬はしばらく待った。
そして、許可を得たつもりで、そっと手を伸ばす。
「では、接触確認を──」
その瞬間、猫の前足が、黒瀬の指先をぺしっと押さえた。
「……」
黒瀬の手が、空中で止まる。
「なるほど。拒絶ではなく、一時停止か」
猫は何も考えていない顔で、もう一度欠伸をした。
「了解。段階管理はめる本体より厳密なんだね」
その様子を通りすがりの学生が撮っていたことに、黒瀬だけが気づかなかった。
そのとき、遠ざかっていく橘のスマホが、ポケットの中でまた小さく鳴る。
ピコン。
黒瀬は顔を上げ、目だけでその音を追った。
さっきまで祝福だった音が、ほんの少しだけ別のものに変わる。
「……やっぱり、少しうるさいな」
誰にも聞こえない声でつぶやく。
そしてその夜から、橘のスマホは少しだけ騒がしくなった。




