第6話 知り合い、バズってて草
その頃、橘はラブホテル街の外れにいた。
夜の街にギラギラ輝くネオンが水たまりに滲み、路地の奥から安っぽい電子音が漏れている。
隣にいる男が何か言っていたが、橘は半分くらいしか聞いていない。
空腹時の今、必要なのは肉だ。肉の方が話が早い。
「入る前にどっか寄らね? 普通に腹減った」
「えー、めるちゃんは何か食べたいものあるの?」
「今は肉だな、肉肉。牛タン」
そんな雑な会話をしていたその時、すぐ横の植え込みがガサッと揺れた。
「……ん?」
橘の足が止まる。
一瞬だけ、嫌な予感がした。
あの予告型の不審者なら、ラブホ街の植え込みから出てきてもおかしくない。猫耳をつけて犬になるような男だから充分有り得るだろう。
ガサリ。
葉の奥で何かがもう一度動く。ちり、と小さな金属音がした。
「……まさかね」
橘は振り返った。
◇◇
一方その頃、黒瀬は全身泥まみれになりながら走っていた。頭には葉っぱや塵まで引っかかっている。
最短経路を選んだ結果、公園の植え込みを突っ切り、工事中の空き地の脇を抜け、よく分からない水たまりに片足を突っ込んだ。
合理的判断だった。たぶん。
安っぽい電子音とネオンで溢れる夜の街。ラブホテルの看板がぎらぎらと光る路地の前で、黒瀬はようやく足を止める。
「……はぁ、はぁ……っ、やっと見つけた」
座標が示す固定位置はすぐ目の前。
ラブホの植え込みの影。
黒瀬は迷わずそこへ飛び込んだ。
「める。迎えに来──」
バサッ、と茂みを掻き分ける。
そこにいたのは、
──猫だった。
ネオンに照らされた、ふてぶてしい野良猫。昨日、黒瀬の靴紐へ「自然界からの停止命令」を出したあの茶トラだった。
その首には、今日橘に渡したはずのブレスレットが緩く引っかかっている。
猫が首を振った拍子に、ちり、と小さな金属音がした。
「…………は?」
黒瀬の世界だけが、猫のあくび一回分停止した。
黒瀬は猫を見た。猫も黒瀬を見た。
正解は目の前にいる。黒瀬は迷わずそこから迂回した。
「……そう」
何も察していない人間が、すべてを察した顔で頷いた。
「……はは。そんな回りくどい合図、君らしいね」
猫は何も言わない。ただ、首元のブレスレットだけがネオンを受けて小さく光っている。
黒瀬は泥だらけの手を服で拭ってから、猫を聖遺物のように抱き上げた。
猫は少しだけ抵抗したが、すぐに諦めた。人間というものはたまに意味が分からない、という顔をしている。
「本当、素直じゃないんだからさ。でも大丈夫、ちゃんとわかってるよ」
服は泥まみれで、髪にはまだ葉っぱが残っている。どう見ても植え込みから出土した不審者である。
橘がこの猫へ返事を託したのなら、こちらも猫を通して返すのが礼儀だ。
黒瀬は猫の向こうに橘を見た。猫にとっては一方的な人違いだった。
「君の瞳は、真夜中のブラックホール。僕の理性を吸い込み、逃がさない重力を持っている。抗うほど、沈む。光すら逃げられない暗闇で、僕はようやく安心できるんだ。……ねぇ、める。君の中に落ちて、壊れてしまえたら……」
「すげぇ、マジで猫に告白してる。しかもラブホ前。……橘、これ本当に知り合い?」
神託は、現実によって雑に中断された。
黒瀬は振り返った。
そこには、橘がいた。
ついさっきまで隣にいた男もいる。ついでに、通行人も数人いる。さらに言えば、スマホを向けている人間までいる。
最悪の観客席が完成していた。
「……え?」
黒瀬の思考が、遅れてようやく追いついてくる。
「め、める!? なんでここに!?」
橘は泥まみれの黒瀬と、抱かれている猫と、その首のブレスレットを順番に見た。
そして、すべてを理解した顔で口元を押さえる。
「……ふ」
笑いを堪えているせいで、声が震えていた。
「やっぱりあんただったか。昨日の今日でフラグ回収早すぎだろ」
「……」
黒瀬の視線が、猫と橘の間で行き来する。
だがここで止まれる男なら、最初から猫に求婚などしていない。
「……それがきっと、僕にとっての救いなんだと思う」
何事もなかったかのように、ポエムを最後の一節まで言い切った。
猫は相変わらず興味無さそうに顔を洗っている。
橘は数秒だけ黙ったが、すぐに、せきを切ったように笑い出した。
「……っはは! あははははっ! 言い切んなし! なんで本人来てんのに猫エンド行くんだよ!」
橘は笑いすぎて滲んだ涙を指で拭いながら、猫の首元を指さした。
「てかそれ、猫につけたら秒で逃げられたやつなんだけど。まさかあんたが釣れると思わないじゃん。位置情報ってマジだったのかよ」
「言ったよ」
「ヤンデレジョークの顔で言うな。最悪の有言実行じゃん」
橘は苦しげに腹を抱えながら、黒瀬にスマホの画面を突きつけた。
「さっき、近くで牛タン屋探してたら友達から送られてきたんだよ。『お前の知り合いっぽい不審者がラブホ前で猫抱いてる』って」
「……」
「しかもライブ配信で『ラブホ前で猫に求婚する不審者』がバズってるよ。今3000人があんたの公開告白をリアルタイムで見守ってる」
彼女が見せる画面の中には、配信の視聴者から寄せられるコメントが現在進行形で滝のように流れていく。
『顔面SSRの使い方それで合ってる?』
『猫の方が冷静で草』
『ラブホ前で猫に告白←今ここ』
『猫は無事、人間は手遅れ』
「本人より先に猫へ到達してんの、攻略チャート壊れてるだろ」
「……っ! める、君って人は……っ」
言葉が続かない。
笑い声と、レンズと、視線。
羞恥も屈辱もあった。
けれど、その中心に橘がいる。
黒瀬には、それだけで充分だった。
顔だけなら、雨上がりの夜に告白する恋愛映画のワンシーンだった。
腕にいるのは猫だが。
「……最高だよ」
黒瀬は涙目になりながら、震える指で橘を指さした。
「コメント欄は祝辞で、スクショは婚姻届だ。消せない記録になった時点で、僕たちはもう、ネットの海に永遠の証明を残したんだね!」
「きっしょ。二度と喋んな。あと猫に謝れ」
ラブホを前にザワザワと沸き立つ野次馬の中で、橘の笑い声が明るく響く。
黒瀬にとっては、橘の笑い声も、視聴者のコメントも、見物人のざわめきも、自分たち二人を祝福する最低で最高のフラワーシャワーだった。
◇◇
その翌日、無響大学の掲示板には人だかりができていた。
本来なら授業の変更連絡や、サークルの新歓ポスター、就活セミナーの案内などが貼られる場所。
その中央に、昨夜の配信をカラー印刷されたスクショが貼られている。
泥まみれの男。葉っぱの刺さった髪。腕の中の猫。どぎついラブホ街のネオン。
余白には、油性ペンで注釈が添えられている。
『猫に求婚した男(泥まみれ・葉っぱヘアー)』
『※猫は無事です』
『※人間の方は未回収です』
「この前の猫耳の人?」
「猫耳から猫本体に行ったのか」
「進化ルートおかしいだろ」
「なんで被写体が一番達成感あんだよ」
その被写体本人は、掲示板の前で満足げに腕を組んでいた。
「消せない記録にしてくれたんだね。記念日だ」
カシャ。
黒瀬は自分の晒し画像を背景に、自撮りした。なぜか画角だけは異様に整った自撮り。
「自分の晒し画像と自撮りしてる」
「本人確認?」
黒瀬が写真を投稿すると、学内SNSへすぐに新しい書き込みが増えた。
『不審者、増殖確認』
黒瀬本人だけは、それを祝福だと信じて、上機嫌でスマホをしまう。
するとその背後から、ひょこっと影が差した。
「──あ。いたいた」
鮭弁当の空き容器が入った袋を片手に、橘が声をかけた。
「よ、ケモナー! 昨日の件で一躍有名人じゃん。万バズおめ!」
ピキッ。
黒瀬の動きが止まる。
黒瀬の脳内で、昨日から稼働していた祝福変換機能が一瞬だけ停止する。
しかし三秒で復旧した。
「……なるほど」
数秒間黙り込んだ後、彼はすべてを悟った顔で頷いた。
「そういうプレイなんだね」
「違ぇよ」




