第5話 首輪を持っていきます
猫耳検証の翌日。
橘はつきのと並んで渡り廊下を歩いていたとき、掲示板のガラス面に映る人影に気が付いた。
できれば他人のフリをしたかったが、他人にしては昨日の記憶が強すぎた。
「……出た。予告型の不審者」
無駄に整った顔。場違いな鎖デザインのチョーカー。
そして、用件がなくても用件そのものみたいに立っている男。
黒瀬だ。
「……あ、学食の人。昨日めるちゃんと話してたね」
「そう。昨日猫耳で犬になったやつ」
「たった一日で情報量どうなってんの」
つきのは引くでもなく止めるでもなく、ただ面白そうにその場に留まる。
黒瀬はつきのの存在を一切気にせず、橘だけを見ていた。
「……める。昨日は少し、やりすぎた」
彼は神妙な面持ちで、わずかに頭を下げた。
「……どしたの。急に」
「だから、直接ついて回るのはやめる」
「お、ついに社会性インストールした?」
「代わりにこれを受け取ってほしい」
黒瀬は小さな箱を取り出した。
差し出す、というより、橘の手の届く距離で止める。受け取るかどうかを橘に選ばせているように見せる、絶妙な距離。
「何これ、爆弾?」
「爆発はしない。迷子防止機能がついてる」
「迷子になる歳じゃねぇよ」
「君の現在地が僕の端末に出る」
「秒で正体現したな。ただのストーカー機能だろ」
「安全設計だよ。君が世界に紛れても、僕だけは見失わない」
つきのは堪えきれずに笑いをこぼし、橘を見る。
「ラッピングは恋愛で、中身は迷子札だね。これ、普通に受け取っていいやつ?」
「こいつの言うこと本気にしてたら、次の講義から精神が自主休講するわ。講義前に味の濃いヤンデレジョーク出すなっつの」
本気にすると疲れる。本気だったら終わっているが、黒瀬の場合は時間帯に関係なく終わっている。
橘は眉をひそめつつ、結局深く考えずに箱を受け取った。
開けると、中にはピンクゴールドの細いブレスレットが入っていた。派手すぎず、安っぽくもない。小さな装飾がついていて、手首に巻いても邪魔にならなそうな軽さだ。
「へー、これ普通に可愛い。あんたにしてはセンス良いじゃん」
橘は、ブレスレットを指でつまんで光にかざす。夕陽を受けて、小さな飾りがちり、と光った。
留め具を留めると、驚くほどあっさり手首に馴染んだ。
黒瀬はわずかに笑った。
「……似合ってる」
その一言だけなら、ただの贈り物だった。相手が黒瀬でさえなければ。
だからこそ、橘は一瞬だけ反応に困ってしまった。
「……ふーん。サンキュー。軽いしテキトーに使っとくよ。わりと気に入ったわ」
「そう、良かった」
黒瀬の声は静かだった。
喜んでいるようにも見えるし、確認を終えたようにも見える。
「じゃ、もういい? 次講義あるから」
「わかった」
橘は何事もなかったかのように、軽い足取りで歩き出す。
つきのは興味深そうに、橘の手元を横から覗き込んだ。
「あの人って普通にプレゼントとか渡してくるんだ」
「さあ。寝たことある不審者からの賄賂」
「言い方。でも、たしかに可愛いから余計に不気味だよね。位置情報拾えるって本当だったりして」
「マジで位置情報わかるなら遭難時に詰まないじゃん。自我強めの地図アプリみたいなもんでしょ」
「めるちゃん、便利さで倫理を値引きするのやめな」
橘は軽く笑いながら、貰ったブレスレットを指でくるくる回す。
「てかさ、これ猫に付けたら映えそうじゃね?」
「やめなよ普通に」
「あはは、冗談冗談」
その声は廊下の喧騒に紛れ、黒瀬のところまでは届かなかった。
そのまま軽快な笑い声だけを残し、橘たちは廊下の向こうへと消えていく。
黒瀬は追わなかった。
いつもなら少しでも長く橘の視界に残ろうとする男が、その日は一歩も動かなかった。
橘の姿が完全に見えなくなってから、彼はようやくスマホを取り出す。
迷いなく画面をタップした。
青い点が、大学構内をゆっくり移動していた。
表示名は、『橘める』。
「……同期成功」
黒瀬は静かに息を吐いた。平穏な喧騒の中で、彼だけがひどく静かだった。
「これで、君が世界に紛れても見失わない」
◇◇
その日の夜。
黒瀬は『聖域』こと自室でモニターに張り付いていた。
机の端には、昨日まで黒瀬の尊厳を破壊していた猫耳カチューシャが転がっている。今はただの百均産の敗北記録だった。
彼は呼吸を忘れたように、画面を見つめている。
地図上の青い光がありえない動きをしていた。
講義棟の裏を抜け、植え込みの周囲を何度も回り、突然、塀沿いを細かく蛇行する。
【警告:対象の移動パターン、人間の挙動と不一致】
「……人間の動きじゃない」
黒瀬は一瞬だけ眉をひそめた。
青い点は、植え込みの周囲を一周し、塀際で止まり、また同じ場所へ戻った。
目的地へ向かう動きではない。気分で世界をなぞっている。
「でも、めるならやるかもしれない」
その信頼だけは厚かった。
黒瀬の中では、すべてが都合よく繋がっていた。
「作戦名──『座標固定(GPSロック)』」
【目的:橘めるの常時追跡】
【精度:誤差0m(黒瀬理論)】
その時、ふいに座標が一点に止まった。
やっと捕まえた。
そう思ったのもつかの間、表示された地点を確認した瞬間、黒瀬の思考が凍りついた。
そこは、ピンクと紫のどぎついネオンが明滅する狭い路地の区画。
「……なんで」
ラブホテル街だった。
脳裏に蘇る、強烈な毒。
『今からセフレと合流するんで』
見間違いだと思いたかった。
だが地図上の光は、確かにそこにある。
「──だめだ」
椅子が派手な音を立てて倒れた。黒瀬は立ち上がっていた。
「……よりによって、一番見たくない場所を出してきた。僕がいるのに、そんな場所で、僕の知らない顔するなよ」
呼吸が浅くなり、急激に指先が冷える。けれど頭の奥だけは異様に冴えていた。
黒瀬の手が、無意識に自分の首元へ伸びる。
鎖デザインのチョーカー。自分の首にあるものとまだ対になっていない。
黒瀬は机の一番上の引き出しを開けた。
黒い布の敷かれた小箱の中に、鎖デザインのチョーカーが収められている。
──自分の首に巻いているものと同じ形。
橘に着けるためだけに、まだ使われずに残されていたものだった。
「……座標だけじゃ足りない。そこにいることは分かっても、僕との関係までは表示されない」
黒瀬は斜め掛けのバッグへ必要なものを押し込んだ。
財布。スマホ。モバイルバッテリー。橘用のチョーカー。
緊急出動の持ち物としては、最後だけ倫理が終わっていた。使用目的はほとんど首輪である。
そしてそのまま、弾かれたように部屋を飛び出した。
「今すぐ、現地確認しに行く」
出勤するタイプの事故物件だった。




